天の響

失意の帰還

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「千年王国に反対するのではなかったか?」
 彼の台詞は唐突な詰問口調で始まった。
「ユグドラシルのやり方では駄目だと、お前も気付いた筈だろう」
 危険な会話だ、とクラトスは思った。
 大いなる指導者に対する不敬。如何に彼ら二人がその指導者に次ぐ地位の天使と言え、何処に耳があるとも知れぬ天使たちの都市で交わすべき内容でないのは確かだ。
 それでもクルシスの幹部のみが入れる部屋を選んだのは、彼にしては上出来、と言えた。
「あれのやり方には……今でも反対だ」
「ならば何故、奴に従う」
 彼がそう問うてくるのは、当然と言えば当然の事だろう。
 生物を皆等しく無機生命体に変貌させ、千年王国を築く──それがユグドラシルの計画だ。犠牲を強いた上での、限りなく不自然な平等。それに何の意味があるのかは、姉の遺志を歪めて捉えてしまったユグドラシル本人にしか分からないのだろう。少なくともクラトスには、理解出来ない境地だ。
 クラトスは窓の外に視線を向けた。
 品種改良を重ねた白い羽根の天使達が眼下に群れていた。けれど喧噪はない。生活の息吹がないこの都市において、彼らは地上の生命とは余りに違う在り方で存在しているのだ。
 分かたれた一方の大地シルヴァラントで時を過ごし、衰退する世界の中でそれでも命を輝かせる人々を眼にしていたクラトスにとっては、心寒くなる風景の筈だった。
 けれど。
「……私はもう疲れた」
 本音だった。
 最早この無機質な都市には何の感慨も持てなかった。
「何だと──」
 問い質す彼の声すらも遠く響く。
「なにもかも、虚しい」
 不意に、同志として理想に燃えていた頃のユグドラシルを思い出した。自分は種族の壁を越えてその理想に共感し、掛け替えのない仲間として認め合っていた。
 あの頃が、生きていた自分の総てだったのかも知れない。
 今はただ生き長らえているだけの存在。死を選ぶ事が許されない、哀しい生命。
「お前も、余り無駄な事はするな。世界を元の姿に戻す為には、あれを黙認するしかない」
 そうすれば、漸く長き生に終止符を打てる。死ぬことが出来るのだ。
 しかし彼の望みはクラトスと違う位置にあった。
「彼女が望んだ世界は、あのような形で果たされるものでない」
 クラトスは背中にぶつけられてくる怒りを感じた。時を経て尚も、彼の感情は豊かだ。
「大地が一つになったとて、そこに暮らすものが無機生命体などと言う話、認められるものか」
 その言葉に、自分たちは恐らく分かり合えないだろう、と思わされた。ユグドラシルを理解出来ないように、彼とクラトスの望みもまた懸け離れている。
 一方はあの頃と変わらぬ理想の実現を。
 一方は生き地獄から救われる為の死を。
 しかし何時どの様にして果たされるかも知れぬ彼の理想は、クラトスにとって意味のない事だった。もしかするとこれが、命短い人の身と、時の移ろいを見つめるハーフエルフの違いなのかも知れない。
 正直、世界などどうでも良かった。
 何の反応も返さず立ち尽くすクラトスに向かい、やがて彼は低い声で言葉を発した。
「……アンナが死んだそうだな」
 嗚呼、とクラトスは嘆息した。
 完全なる空洞となり最早傷む筈もない胸の奥が、まだ疼く。
「それで、その様か」
 情けない、と言外に含ませて彼が断じた。
「貴様の四千年間は何だ。人間の女一人に左右される程度の考えだったのか!」
「ユアン」
 彼の名を呼んで視線を上げ、帰還から初めてクラトスはユアンの顔を真っ直ぐに見据えた。
 然したる目的もなく、ただクルシスには賛同できず地上を流離っていたある日に、彼女と出会えた。愛するものを見付けられた。それは長くなり過ぎた生の中の、ほんの瞬きのような日々だった。
 けれど煌めいていた。
 もう一度理想に生きようと思う程に、今ある命に執着出来る程に。
 人は醜く愚かしい生き物に違いない。自分はユグドラシルの計画の奇怪しさに気付いてはいても、協力しないと言う立場しか取らなかった。それが、自分の子供が出来て初めて、クラトスはこの世界を無機質なものにしたくないと強く願った。
 自分の総てだった。
 愛するものたちが生きる世界を、守りたいと思った。
 だから。
「アンナは……死んだのではない。殺されたのだ」
 その死はクラトスから総てを持ち去った。
 理想の実現など、虚しくなった。思い描いていた世界に必要な、掛け替えのないものが失われてしまったのだから。
「……私に、な」
 だから何度でもクラトスは自らを断罪し、哀しく生き続ける。ユグドラシルの計画が実り世界が統合される、即ち命を終わらせる事が出来る、その時まで。
 暫しの後、ユアンは口を噤むと身を翻して行った。その背中が語る失望と激しい怒りに、しかしクラトスは応える術も、心も持たなかった。

2003/09/13 初出