天の響

女神の贄

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 人間には知覚出来ないマナと言うもの。この世界に恵みを与える生命の源。
 シルヴァラントから奪われ続けていたそれの流出が止まった。これからその流れが逆転し、繁栄の時を迎えられるか否かは、目の前を歩く少女の双肩に掛かっている。小さな肩にのし掛かる他力本願な人々の期待。知らず留めていた視線に、再生の神子たる少女は振り返った。
 ──マーテル。
 思わずその名前が浮かぶほど、彼女のマナの波長は懐かしかった。まるで、この旅路がかつて同志と共に歩んだあの日々と同じかと錯覚してしまう。
 ユグドラシルがわざわざ自分を派遣した理由はそこにある。即ちこの少女こそ、クルシスが実に四千年の時を費やしたその結果。女神として祭り上げられたマーテルの新たな身体、生贄なのだ。
 思えば、これだけの時間と力と犠牲を掛けて生み出したのは死すべき運命のみか。
 神子としてクルシスが選んだ者は必ず死ぬ。旅の途中でレネゲードや異形のモンスターに殺されるか、封印の魔物に破れるか……それらは防いでやれよう。それが自分の任だ。けれど天に導かれるまま救いの塔に達したとしても、そこで待っているのは、人である自身と言うものの上に下される、逃れようがない死だ。
 表情の乏しい顔で見返していると、しかし死を強いられる少女はこの熱砂の上で一涼の風となる明るく爽やかな笑顔で微笑んだ。
 これから自分が辿る道を知らぬわけがない。それなのに、何故笑っていられるのだろう。
「神子」
 名前を呼ぶのは抵抗があった。一人の人間として彼女を認めて尚、自分が冷静でいられるか自信はなかったからだ。
 些か不自然な呼び掛けに、少女はやはり静謐な微笑みを讃えたまま応えた。
「はい、なんですか?」
「転ぶぞ」
 その言葉通りに、前方不注意が続いた少女は踵を滑らせた。あっ、と声をあげそのまま尻餅をつく。細かい砂が真白い衣装の表面を飾る。瞬時に同行者である女性が飛んできて両者への小言を口にした。まさか神子が転ばないように護衛しろと言うのではないだろうな、と肩を竦めて見せる。
 照れたように笑う顔から、このところ彼女を支配していた強張りが霧散した。楽しそうな、幸せそうな笑み。そうだこの方が良い。奪いに来た自分がそう思うのは烏滸がましかったが。
 イセリアは神子と大聖堂を保有する土地であったが、人間牧場との不可侵条約を除けば普通の村と大差ない。ディザイアンに対し必要以上に怯えずすむ、その事だけは村人を心安らかにしただろうが、結局は救いをもたらす神子に縋り頼むしかない。それでいて神聖過ぎる天からの異端者を、何処か腫れ物のように触る。
 それでも神子が重圧に圧されず、これほど和やかな笑みを持つ少女に成長したのは何が原因だろう。偽りの女神に捧げるには余りに人間味豊かで、こう育った彼女に心が痛んだ。
 否、判っている。彼女を彼女として扱う者が一人でもいたのだ。例えば、あの鳶色を宿した少年だとか。
 ……引き離して良かったのだろうか。
 自分の任を思えば簡単に是と応えられる問いに、けれど今は揺れるものを感じる。
 あの子供が「ロイド」だったからだ。子供は村で留守番をしていろと言った同じ口からは決して言えない、その姿をもっと間近く確認したい、見守りたいと言う欲。総ては出来るわけもない、身勝手な想いでしかないのだが。
 生きていれば良いと、そう思うべきだろうか。ロイドが平和に暮らせる世界を作るその旅だと捉えて見ることは出来るだろうか。
 常ならば出来た自律が極めて難しいのは、彼女が、あまりに愛らしく綺麗に笑うからだ。その横に在るのが自然なのだろうもう一つの笑顔を、意識の何処かで探しているのが判る。
 愚かな事を考え過ぎなのだろうか。遠くノイシュの鳴き声が聞こえたような気までしてきて、クラトスは頭を振った。

2003/10/05 初出