天の響

名を呼ぶことなかれ

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 シルヴァラント再生の旅は遂に最後の封印を残すのみとなった。
 祝福と言う名で与えられる、神子の身体の変貌。これから起こるのだろうそれが予期出来てしまう為に、一行の足取りは行きよりも重いようだった。
 一行の最後尾を歩く男は、知らず険しくなる表情に嘆息した。
 これは何時襲い来るとも知れぬ魔物に対しての緊張ではない。不確定要素を多く抱え過ぎたこの世界再生の旅の行く末こそが、彼の心配事だった。
「クラトスさん」
 常ならば、真っ先に先頭を行く少年の斜め後ろにいる筈の神子が、歩みを落とし並んでくる。それを気にして一行を律する女性がクラトスに視線を向けたのには、鷹揚に頷いてみせた。そもそも自分は神子の護衛だ。少年が同行した為に少々立ち位置が変わったが、神子が望む限りは傍らに付いているのが自然と言える。
 暫くは円を描く階段をゆっくりと降りる足音だけが響いた。
 なにを語るべきか、考えているような様子で神子は足下に視線を落とし、それから唐突に顔を上げた。動作同様、語り出した話も随分と突然のもので。
「ロイドが、コレットって呼んでくれるんです」
 成程、確かに旅の仲間たちは再生の神子である彼女の事を名前で呼んでいた。それは幼馴染みであるとか教師であると言う事とは別の、人と言うものの温かい交流の産物であって、逆に世の多くの人々と同じように彼女を「神子」と呼ぶクラトスは彼等の中にあって異質だった。
「たぶんお父様以外の人にそう呼んで貰ったのは、本当に数えるくらいで」
 使命を負って生まれた人ならぬ少女であれば、それは当然だろう。
 再生をもたらす希望の星。天使の子供。即ち地べたに這い蹲る人間種とは次元が違うと。劣悪種として虐げられ続け過ぎた人々は、それに反発する心がありながら何処か卑しく救いを待つだけだ。
「嬉しかったんです」
 前方の少年たちの一人が気にして振り向き、傍らの彼女が微笑んで見せたのが分かった。
「だから普通の女の子みたいに幸せになれた」
 一段一段と降りていく拍子に揺れる金髪。ただ純粋に真っ直ぐで柔らかに見えながらも芯と言うべき癖があるその髪は、彼女の性質そのものかも知れない。
「でも気付いたんです」
 言葉の思いを表現したかったのか、勢いよく腕を振り過ぎたのだろう。相変わらず見事としか言い様のないタイミングで蹌踉めいた。瞬間、助けの手を差し伸べたのと同時に神子の背中にマナの光で出来た羽根が現れた。
 掴んだ腕を軸に体勢を立て直すと、礼を言いつつ足を着ける。衣服の裾が軽く持ち上がり、再び落ちた。
「それに甘えてきちゃったって」
 照れ笑いは、何に対してのものか。
「クラトスさんは、私の事をコレットって呼ばないから……」
 それは意識と無意識が混じった行為だった。
 共に旅をする前から決められていた、監視者としての身。その意思を、立場を表す言葉で確認しながら律してきた。決して彼女たちの為でない。
「私は神子なんだって思い出せました」
 逃げられない、世界でただ一人の生贄。
「だから、ここまで来れたのはクラトスさんの御陰です」
 とん、と両足を着いて最後の階段を降りた少女は、何処か眩しそうにクラトスの顔を見上げた。天から差し込むプリズムを受け、背中の羽根から鱗粉に似た光が零れ落ちる。
 本当に眩しい存在なのは、彼女だと言うのに。
 これから彼女はまたひとつ人間としての機能を失う。そして不確定要素の一つであるあの異世界の少女はきっと、シルヴァラントとテセアラの歪んだ仕組みを語ってしまうだろう。それでも、先に進まねばならない。進ませねばならない。
 それが本当に彼と彼女の為でないと知っているのに。
「最後まで……お願いします」
 これで良いのだろうか。
 瞬時に浮かんだ思いが、脳からの命令を伝達される前に溢れ零れる。
「神子──」
 やはり名前は、呼ぶことが出来なかった。

2003/11/09 初出