「せっかくお膳立てして差し上げたのにあんなトコで退いちゃうなんて、俺様がっかりですよ」
今宵も何処かで晩餐が開かれているのだろうか。遠く調べが聞こえる。王都メルトキオを華やかに彩る上流階級区画。その灯りに眼を向けながら、男は手にしたグラスをゆっくりと傾けた。
追われる身であるが、彼に緊張感はない。自らを狙う有形無形の敵意には慣れていたし、それが明確に眼に出来る刺客となった今は、寧ろ対処が容易く思えた。
丸テーブルに置かれた小型通信機が言葉を吐き出した。
『諦めたわけではない』
王国と渡り合う組織の長としては随分若い声だ。フウジ山岳で見えたその姿を思えば、自身とさほど変わらないように見えた。もっとも、衰退世界からの訪問者たちが言う通り天使なのだとすれば、その若さを論議する意味はない。
それにしても天使、とは。
男は己の髪と同じ紅色の液体が揺れるグラスに隠れて嘆息した。
教典通り背に美しい翼を宿したそれが、せめて衰退世界の神子のように愛らしい少女ならば兎も角、男性形を取った者を指すのでは敬虔なる気持ちも霧散しようと言うものだ。仮に自分自身がこの背中に輝く翼を得たとしても、そのような姿、滑稽に違いない。
交渉相手の胸の内は知らぬまま、融通の利かなそうな声が続けられた。
『奴に怪しまれては全てが水泡と化すのだ』
「奴、ねぇ」
伏せられてはいても、それが山岳に最後に現れたあの男の事であると容易く想像出来た。衰退世界の一行に同行していたと言う、クルシスの天使。レネゲードとの関わりは推測するしかないが、神聖なる機関も意外と詰まらない揉め事を抱えているのかも知れなかった。
例えば自分が、今こうしているように。
独り言のように呟いた言葉を、通信機は拾えなかったのかあるいは相手が無視したのか、応えはなかった。
『兎に角、今後も頼むぞ』
半ば一方的に協力を約させ、通信を切る音がした。
「はいはい……」
頼まれるのは、別に問題ない。しょせん監視役。それも最初から──売るつもりの相手だ。
けれど。
男は通信機を荷に放り込むと、バルコニーに繋がる折れ戸を開け放った。肌寒さが心地良くも感じられる夜風が室内に流れ込む。
そして宵の中に妖しく煌めく黄金色の羽に似た鎧の女を見付け、男は仰々しく歓迎を示した。
「ようこそいらっしゃいませ、美しい方。お待ちしておりました」
けれど売る相手は選ばせてもらう。そう心の中で呟いて、彼は口唇で笑みを形取った。