天の響

独りきりの戦場

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 その少女がなにもない場所で転ぶのは、常のことである。
 この日も宿の部屋に入った途端、宙に浮いた彼女の身体を、忍の娘は危うい所で抱きとめる。だが瞬間、笑みを浮かべようとした頬は強張った。
「コレット、あんた……!?」
 抱き締めた服の中に感じたのは人の肉でなかった。もっと異質な、生き物とは違う、硬性の感触だ。例えば石のような。
 はっとして身を捩った少女の上着が、咄嗟に袖を握り締めたしいなの手の中に残った。小さな肩が露わになる。その白い肌はおぞましい事に半ばから錆緑に変色し、結晶のような模様まで出来ている。
 リフィルを呼ばなければ。頭ではそう思ったが、その命令は身体まで伝播しなかった。動転したしいなの右手を、少女が掴む。
「言わないで」
 指先に痛みを感じるほど強い力だった。
「だいじょぶだから、言わないで欲しいの」
 少女はそれ以上、何も語らない。固く口を結び、身を縮め、息も潜め、ただひたすら何かに耐えている。伏せた顔を縁取る淡い金糸の髪が震え、けれどしいなの予想に反し彼女の瞳に涙はない。
 少女は一体いつから秘めた戦いに挑んでいたのだろう。外見の儚さからは想像もつかない激しさだった。
「ごめんね、しいな。ごめんね」
 ふと、しいなは少女の幼馴染みである少年のことを思った。共に旅をするようになってからも、少女は彼によって常に護られているのだと思っていた。寄り添い合う二人の間には誰にも踏み込む事の出来ない優しい世界があって、その有り様を羨ましくさえ感じていたと言うのに。
 本当の少女は、世界シルヴァラントの命運をこの小さな肩に背負い、一体どれだけの孤独な戦いを続けて来たのだろう。
 しいなとて世界テセアラの為に身を捧げた筈だった。けれど、一方の皿に人の命が乗せられたその時、天秤を投げ出してしまった。今も、召喚士として他の者では代わりのない楔を外す契約を行ってはいるが、一人ならきっと逃げ出していた。常に誰かがしいなを叱咤し、助けてくれたから、此処まで来られたのだ。それなのに──
 細い声がもう一度呟いた。
「ごめんね……」
 堪らず、しいなは金色の頭を抱き締めた。
 懐でちりん、と小さな鈴が転がった。今は亡い小さな友の呼ぶ声が耳に蘇る。少女が敢えて選んだ孤独な戦いを、肯定することも否定することもしいなには出来ない。その資格も覚悟も見当たらない。ただせめて、出来ることを選びたかった。
 故にしいなは沈黙し、少女の戦いの行く末を見守ることにした。

2009/04/25 初出