糸が切れた操り人形のような姿で彼は繋がれていた。
投げ出されて、捨て置かれた。その意識は一筋の光も届かぬ海中を音もなくただ沈んでいるように、昏く塗り潰されていた。
このまま消えていくのだろうか。
それはもう長いこと彼を捕らえて放さない蠱惑的な誘いだった。だが、やるべき事を見出した今となっては、底のない沼に足を引きずり込もうとする障害でしかない。
足掻けるだろうか。
そう思って僅かに意識は浮上しようと動いたが、逃げ道が見付からない。酷く息苦しくて頭痛がする。呼吸しようと喘いだ喉にけれど風は通らなかった。
薄れゆく意識を繋ぎ止める努力は指の間をすり抜けていき、彼は哭いた。
死ぬのか。
何も為せないままに。
疲弊した自我が押し潰される恐怖に悲鳴を上げた、その時。
声が聞こえる。暗闇に閉ざされた世界に、ほんの僅かな明かりを灯そうと言う声が、遠くから聞こえる。
それに気付いた次の瞬間、意識は急速に押し戻され、空気が口から吐き出された。
クラトスは瞼を押し上げ、億劫な瞬きを繰り返した。ぼんやりとした視界に自分を覗き込む形で浮かび上がった顔は、古い友のものだった。
「生きていたか」
冗談なのか本気なのか掴み切れない台詞だった。
オリジンの封印を抱える身を──あのユグドラシルが害する事はない。如何に激昂していようと、それは絶対だ。十数年前、何度も死を選び掛けた自分であっても、彼は必ず連れ戻したのだから。
冷静になってそう考えると、死にかけていたつもりだった先の自分の意識が可笑しくもある。或いは、これ以上動けないようユグドラシルが暗示でも掛けたのだろうか
身体を動かそうとした拍子に、両手が拘束されている事に気付いた。戒めに阻まれ、血の気が引いた指先がじんと痛んだ。
密閉された空間に呼吸と、男が外そうと手を伸ばした枷の音だけが沈殿した。澱んだ空気で支配された嫌な部屋だった。気の滅入る事を認識したくない思いが勝って、クラトスは男の名を呼んだ。
「……ユアン」
やっとの事で出たその声は酷く掠れ、聞き落としてしまいそうに小さかった。天使の聴覚がなければ、呼び掛けとして成立しなかったに違いない。
手枷を外すのに苦心しているらしい男は、些か不機嫌そうな顔で聞いている素振りだけ返した。もっともここ数千年、上機嫌な顔などお互いに向けたことはなかったが。
「こんな所にいて、良いのか」
心砕いて発した二度目の言葉は、未だ何処かざらりとした感覚を持っていたが、だいぶまともな声になった。
「レネゲードならば退避させた」
心配される筋合いはない、と吐き捨てるようにユアンが応える。確かに、今のクラトスは他人を心配出来る立場にない。
しかし、彼が問うた内容は違ったのだが。
「そうではない。裏切りを知られて……デリス・カーラーンに戻ってくるのは、危険だ」
途中水分が欲しくて飲み込んだ唾は、鉄の味が滲んでいた。目覚める前に、噛み締めてしまったのかも知れない。余計に渇きを覚えた。
ユアンはと言うと、様々に動かしてはいるものの、一向に解ける気配がない枷を手にし益々眉間に皺を寄せている。そう言えば彼は何処か不器用なところがあった。こうした物の扱いも、生き方も。
だが遂に術を思い付いたらしい。ついと当てた指先から念が伝えられる。
「安心しろ、と言うのも妙な話だがな、クラトス」
術に集中しながら、ユアンは横目でクラトスを見下ろした。
「私についての降格も、追撃命令も出されてはいない」
この場所も、四大天使の一人として堂々と入った。そう続けながら、頬を嗤うように歪める。
「意図があって泳がされているのか、興味もないのかは知らないが」
語尾に重なって微かな音がした。戒めが外れたのだ。力の抜けた腕が重力に従い投げ出される。その反動で身体が傾いだクラトスは、そのまま倒れ込みそうになる自身を咄嗟に前腕を支えた。力の入りきらない腕が、細かく震える。
反射的にユアンが驚いた顔をしたのが、こんな時でありながら可笑しいように思えた。みっともない姿を見せるのは癪だったが、同時に気も楽になる。
立ち上がろうとしてみる。きちんと手を貸さなかった事を恥じるように、今度はユアンが手を伸ばしてきた。
「いや……」
勢いで立ち上がり、同時に息と言葉を吐き出す。
一瞬立ち眩みに襲われかけたが、こちらも今度は無様に転倒する事なく両足を踏みしめ、息を整えた。
大丈夫だ。未だ自分で立てる。事を為せる。
「裏切られたと、思いたくないのだろう」
それを事実にしたくないのだ。
結論を出さないことで自分の心の安定を図る。それは自分にも覚えのあるやり方だった。そうしてみると、決して分かり合えないだろうと思っていたユグドラシルに幾らか同調出来る自分に気付き、クラトスは失笑した。
しかし、ユアンはそう思わなかったらしい。
「先に裏切ったのはどちらだ」
マーテルの遺志をねじ曲げ理想を変色させたユグドラシルこそが、最初に同志を裏切ったのではないか。
忌々しげなユアンの説にも頷けるところはある。どちらも自分の物と出来る感情だった。だからこそ自分は取るべき道を選ぶのに長い時間が掛かってしまった。
もう終わりにしなければならない。
自然、足が前に向かって動いた。
「行くのか」
クラトスが頷くと、そうかと呟いて彼もまた別の方向を見据えた。
お互い、取れる道は狭まった。四千年前の旅路以来、共に千年王国計画に反対しながらも、方法論の違いから対立の方が多かった。けれど今はまた同じ方法に賭ける事になるのかも知れない。何も語らなかったが、そんな予感がした。
そのまま立ち去り掛け、クラトスは振り向き直した。裏切りは広く知られていないと言っても、直接動くのが危険である事は想像に容易い。ならば話を持ち掛けたい相手がいた。
ユアンに頼むのは、世話になったついでだ。
「テセアラの神子と連絡を取りたい」
「……使え」
無造作に寄越されたのは小型の通信機だった。相手が端末を廃棄していない限り未だ動くだろう。
結局は何もかも賭だ。四千年の果てに分の悪い賭を打つなど、愚かしいとしか言い様がない。
そう思って通信機に視線を落としたクラトスは、不意に奇妙な違和感に囚われた。正確には通信機を収めた己の手だ。漸く血が巡り始めた指先が自分の意思に従って動く。その当たり前の事が、妙に気になった。
「どうした」
動きを止めたクラトスを、ユアンが見咎める。
「気にするな」
実際、大した事ではなかった。外れた筈の枷が未だ何処かで自分を縛っているような気がして戸惑っただけだ。
恐らくユグドラシルと完全に決別してこそ、この心の戒めは解けるのだろう。きっと──どちらに転ぶにせよ、遠い日の事でない。
改めて頭を振り、クラトスはゆっくりとしかし確実な足取りで一歩を踏み出した。
呆れた話だが、暫くしてから礼を言い忘れた事に気付いた。