天の響

それでもこんなに君が愛しい

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「ユアン──?」
 今でも色鮮やかに思い出せる輝かしい日々と同じ、あの独特の抑揚で名を呼ばれたから。
 真っ直ぐに前を向いていたのは失敗だった。顔を隠すことも出来ず、果たしてどのような表情を浮かべたものか決めることも出来ず、ただ脳の奥がじんと麻痺したように動かない。知覚出来るのはそれだけ。
 岩壁にくり抜けられたドワーフらしい住居の入り口で、機械仕掛けの少女は微笑んだ。懐かしさと慈しみと悲しき想いを織り交ぜた女神の顔で。
「……マーテル」
 その名前に特別の響きが与えられたのは当然のことだ。
 抱き締めたいと思った衝動と別に、どこか奇妙な躊躇いと制止の声がユアンの動きを引き留め、彼の方こそ人形であるかのようにギクシャクとさせた。
 不自然な沈黙の間も、彼女の視線は優しい。
「アルテスタの実験は失敗したのではなかったか」
 何か言葉を出したくて口に上らせた問いに、ユアンは密かに舌打ちした。確かに不思議であったが、別段そんな事が聞きたい訳でない。しかし気の利いた科白の一つも浮かばなかった。
「タバサは……この子は、ミトスの為に私を受け入れてくれたのです」
「ミトス……?」
 鸚鵡返しにその名を呟いたユアンに、彼女はゆっくりと頷いてみせた。
「助けてもらった恩返しをしたいと」
 タバサを壊したのと同じその手が、以前にタバサを救っていた。心を宿した人形はその事を何時までも感謝し続けて、何時か何かの形で返すのだと願っていた。例え少年に裏切られても。
 そして最後の瞬間に思い出した自分に出来る恩返しは、自らの死によってもたらされるものだった。
「怖かったでしょうに、それ以上に必死でした」
 折からの風に、彼女は頭上の帽子を押さえた。束ねられた髪が揺れる。長い髪を流れるに任せていた恋人を思えば見慣れぬ動きに、ユアンは現実と夢の狭間の危うさを感じた。
「私は、消えていく彼女の自我に乗り変わる形で、今この場に在るのです」
 単独では動かない筈の感情回路が自発的に動き、自我を生み出した。それによって失敗したと思われていた彼女の復活劇。それが今、こんな形で成されるとは、如何なる神の悪戯だろう。回路が初期化されただけだと言ってしまえばそれまでだ。元々そのための機械だったのだから。しかしひとつの犠牲も欲しくはないと、心優しい彼女が想う気持ちも分かる。
 多くの命を犠牲にしてきた自分たちを、どう思っているのだろう。
「マーテル、私は──」
 言いかけた言葉はなんだったのだろう。
「ユアン、時間がありません。私を古里ヘイムダールまで連れて行ってくれませんか」
 毅然とした彼女の声に遮られ、ユアンは自分の言葉を失った。こんな時、自分は酷く無様だと思わされる。
 そもそも、ヘイムダールへ何の用事があると言うのだろう。掟に縛られ、自分たちハーフエルフは入ることも出来ないあの懐かしくも苦いあの古里ふるさとに。もっとも、今の彼女ならばありもしない血には縛られないだろうけれど。
 そして彼女と言う存在は、この先どうなるのだろう。
「大丈夫、分かっています。私の存在が不自然なものであることは」
 知らず視線に乗せていた疑問に彼女が応えた。
「ですが分け与えられたこの身で、私はあの子の過ちを正し、この世界を守りたい」
 不思議だ、と思った。
 自分たちは絶望し、道を誤り、そしてあまりに膨大な時を過ごしてしまった。それなのに、今でも彼女は自分たちに対して慈愛の笑みを浮かべてくれる。
 彼女は軽く首を傾けた。翡翠色の毛の先が、風に揺れて舞う。
「私たちの祖先がそうであったように、この美しい星を愛しているのです」
 そこに女神がいた。ただその名を冠されただけに過ぎなかった筈の女神が、けれど実在している。
 何故彼女は死んでしまったのだろう。確かな理想と最も尊い心を持っていた彼女が今は亡く、残されたのは、確かにあった筈の理想をねじ曲げるか、ただ元の形に固執するかしか出来ない自分たち。
 瞬間、沸き上がった衝動が勝り、ユアンは彼女の身体を抱いていた。
 腕の中に収まった身体は、細工師の魂が注がれただけあって、生ける人の身と錯覚するほど温かだった。胸元に押し付けられた頬が切なく息を吐き出す。
 彼女はこんなに小さかっただろうか。
「わかっています、ユアン。ユアン……」
 記憶の中の彼女と同じ優しい声が、名前を繰り返す。
 柔らかな声音が宥めるような抑揚で繰り返されるのが、何処か泣いているようにも聞こえた。無論、涙を流す機能などない筈だ。妙に冷静な部分だけが働いて、頭の中でそう呟いた。今の彼女の身体から流れ出るものがあるとすれば、それは動力源であるマナだろう。
 けれどそれは確かに涙に違いなかった。
 何のための涙だろう。再会の喜びか、近過ぎる別れへの悲しみか。少なくとも自分にとっては、そのどちらもだと仰いだ空の光が痛い。
 四千年は長かった。そんな当たり前の事に、ユアンは今更ながら気が付いた。

2003/11/06 初出