天の響

Jesu, Joy of Man's Desiring 3

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 しいなが去ってから半刻が過ぎようとしていた。
 暫くすれば最後の出立の時を迎えるだろう。方法は違えど、四千年前から待ち望んでいた刻をこの世にもたらすため。けれど何故か、それまでの時間が惜しく思える。
 クラトスはただひたすらに時を待った。待つことは苦痛でない。彼の身は、時が肌の上を滑っていくあの独特の感触と、疾うに親しんでいた。
 地へ沈んだ太陽の光を懐かしみ、落ちた星の数を想い、長い記憶で思考を反転させる間にどれほどの時は流れただろう。
 やがて、背後に仲間が起き上がる気配があった。靴音を極力立てぬよう配慮はしているが、確かな重みのある足取りが次第にその振動を大きくするのを、天使の聴覚は正確に拾った。
「クラトス殿」
 呼び掛けたのは、リーガル・ブライアンの静かな重低音だった。
 彼はクラトスの傍らまで歩を進め、しかし顔は正面へ向けたままその場に立つ。やがて、敢えて弊衣をまとった男はもう一度名を呼ぶと、立つ位置と同じく、適度な温度を保つ言葉を紡いだ。
「全てが終わった際には一献いっこん如何かな」
 男はそう言ったが、無論酒宴のみを指したのでなかった。
「貴公と話をさせて頂くには若輩の身だが、宜しければ」
 そこに同じ罪の響きがある。
 愛する者を守ること敵わず、それどころかその生命の鼓動をこの手で潰した。苦しみから解くと言う名目は、何の救いにもならぬ。その重みを知る者同士、語る役に足りぬなどと言うことはない。
 クラトスの時をすべて振り返るには、確かにその年月が足りないけれど。
 しかし、言葉には続きがあった。
「今振り返るには、貴公の月日は些か長過ぎるようだ」
 思い掛けぬ、だが正しき指摘に、クラトスの口の端は見る者なく微かに綻んだ。
「その通りだな」
 歳月は、無機化したクラトスの上に刻まれる事なく流れていった。ゆえに彼自身ですらその長さを疾うに忘れた。過ごす日々の愛しさを失い、ただ思い出だけが残されているのだと、そう思いもした。
 だが追憶に耽るべき時があっただろうか。
 変えられるものは、今しかないと言うのに。
 クラトスは首肯した。
 あるいはリーガルにも、同じ開眼があったのかも知れないが、それはクラトスにとって関わりのない事である。
「その時には付き合って頂こう」
 寧ろ、自分こそが酌み交わす相手として不足であるかも知れない。
 クラトスは半ば以上卑下でない本心を込め、応えを返した。
「いや、私こそ出過ぎた真似をした」
 謙遜の衣へ互いに袖を通した二人は、漸く顔を見合わせ、年相応の静けさを保って笑った。
 年を重ねれば、笑いたい時に笑えず、笑いたくない時に笑顔を強要される事もあるが、今は笑みたい時に笑む自由があった。
 だが必要以上に言葉を重ねる嗜好はどちらにもなく、クラトスは再び視線を下げ、リーガルは他の者を起こそうとしてか、踵を返した。靴が心地良い拍子を控えめに刻み、続きの間へ向かう。そこでリーガルの足音は途絶えた。
「クラトス殿、貴公のご子息は素晴らしい男だ」
 彼は微かに首を回し、肩越しに言葉を落としたようだった。
 虚栄と富で塗布された繁栄世界の貴人であっても、仲間には飾らぬ男だ。弁は真実だろう。だが今、これより世界を変えようと踏み出すこの時に口にするには相応せぬ、奇怪な言葉だ。そう、それこそ似合うのは、全てが終わった際に一献傾けながら。
 思い、振り向いた視線の向こうに、クラトスは光を見た。
 冷えた薄闇と共にあるこの都市に輝きと化して差し込む、天色のマナを。
 ――ロイド。
 名を呼んだと思ったのは錯覚か、唇が生んだ波紋なき空気は鼓膜を震わせず、しかし息子は応えた。
「クラトス」
 彼の名は、ロイドの手に掛かると律動的に弾んだ。
「どうした」
 面に鎧戸を下ろすタイミングを失ったクラトスは、表情の選択を三度迷い、遂に決め損ねたまま、独創性こそないが最も無難な言葉を返した。
 その間に、ロイドは長椅子の空いた部分を領域と定めたらしい。クラトスの脇に腰を下ろすと、行儀悪く足を組んだ。
「最終決戦も頼むぜ」
 ロイドの言葉は単純であり、そしてその通りに心情も真っ直ぐであるらしかった。
「あんたが後ろにいてくれると、どこまでも戦える気がするんだ」
 それが賛辞である事は理解していたが、所以がいかなものかクラトスは密かに戸惑った。
 偽りの再生を求め旅立ったあの頃とは違い、今やロイドは父を倒すほど力を付け、信頼に能う仲間がこれほど在る。対する自身はこの一時の間に、その珠玉の目映さで眩みそうだったと言うのに。
 迷った末、クラトスは問うた。
回復魔法ファーストエイドがあるからか?」
 対する鳶色の瞳は名状し難い複雑な色を浮かべた。
「……すまない」
 発した者としては恥じて誤りを認めたつもりだったが、受けた側は理解の易い方向へ解釈した。
「いや、あんたでも冗談なんか言うんだな」
 クラトスは絶句した。ロイドもまたその先に言葉を用意しなかった為、常ならば心地よい静寂が、この時ばかりは冬の気配をもって場を支配し、嘲笑うようだった。この後もロイドが話し出さなければ、クラトスはあれほど仲間たちに否定しておきながら雨霰と降らせた後悔と言う名の雪に埋もれていたやも知れぬ。
 ロイドは左手のエクスフィアの表面を指先で撫で、その事で胸の内を整理しているのか、訥々と話し始めた。
「もう俺は誰にもいなくなって欲しくない。そんなこと、誰も望んじゃいない」
 言いながら、ロイドは足を落ち着かない様子で動かした。良い品だが老いた長椅子が、鞭打つ行為に抗議の音を上げる。
「良く分かんねーけど、だからココにいて良いんだと思う」
 彼の語りは些か漠として、同じ理想を語るのでも、かつて同志を率いた年若い少年の方が、よほど能弁だった。しかし奥底にある温かみが失われるものでない。
 嘆息が漏れ出た。
 許しだとか、そんな傲慢な事をロイドは言っているわけでない。ただ、其処に在る権利を等しく認めているだけだ。けれどそれの何と困難で、偉大な事よ。
 零れ落ちた吐息のままに応えようとして、しかしそれはロイドに阻まれた。
「あんたもそうだし」
 子は、赤子だった頃のまま、変わらず澄んだ瞳でクラトスを見遣った。
「たぶん、ミトスも」
 嗚呼、何という――。
 クラトスは、瞬きは疎か呼吸の仕方まで忘れた。
 生きた証を刻むことすら許されていなかったあの時代。その言葉を、もっと早く彼へ言ってやれれば良かっただろうに、指導者に従い大地の生者と異なる身へ変じた自分達では、遂に言葉にする事が出来なかった。
「それを伝えに行ってやろうぜ」
 感情に蓋を乗せ抑制を促すのは困難を極めた。
「……有難う」
 それ以上の言葉は出てこず、クラトスはただ、自身でも熱を感じる視線をロイドに向けた。
 人に受け入れられる。それこそ、ミトス自身望んでいた事柄であった。
「なんだよ――照れ臭いなぁ」
 言葉の通り決まり悪さを持て余したか、ロイドは勢いよく立ち上がると顔を背けた。しかし上気は顔だけに留まらず、耳の先まで赤くなっていたのだが。
 背後で複数の気配が起き上がり、休息を終えた仲間たちがやって来たのはその時だ。
 ジーニアス、と幼馴染みを呼ぶ語尾は照れに強まった。
「起きろよ、腹減った!」
 強請られ、上下瞼の相愛の仲を引き裂いたばかりだったジーニアスは正統な不平を口にしたが、親友の胃が実際に少年より激しい不平を訴えるのを聞くと、遂に顔は笑みで崩れ、それは他の者たちにも伝播した。
 暗い蔭に囚われている者など、此処にはない。
 死した理想の残照は確かに美しかった。しかし、今ここに昇りつつある新しい太陽の、如何に眩しく希望に満ちている事よ。
 賑わしい光の中で一人クラトスは、マーテルでない、最早地上から失われた古き神の名をひとつ思い出した。

2005/01/17 初出