Tales of the Abyss Fanpage

哀しき棹歌

short short "song of Lorelei"

 空は暗雲に閉ざされ、薄紫の障気が辺りを染め上げている。幾多の呻き声は泥の海に沈み、残された舟は一艘だけである。
 少年は詠う。
 昼も夜も変わらぬこの天の下、幾度詠じたか分からぬ同じ一節。それは始祖が残した契約の守り歌である。
 譜に込められた力が音素と呼応し、暗い靄を退ける聖き光を灯す。波上で揺らぐ流木の舟を清浄な風が押す。しかし、それは長く保たなかった。闇の溜息に灯火は吹き消され、障気が躙り寄る。同じ古語の旋律を唇に乗せ泥の海へと押し返すも、喉奥に残る灼け付く気配がその旋律を歪め、結界は紡いだ端から解れていく。
 舟には同乗者がいた。少年と面差しの似通った女だ。震える手で腹を撫でている。なだらかな膨らみは、そこに子が宿っている事を示していた。
 滅んだホドの、最後の子供。
 少年は詠う。
 最早まろみを帯びた彼の声でない、嗄れた音が譜を紡いだ。声変わりを間近に控えた柔らかな喉が食い破られていく。だが疵ならば、と少年は思う。疵ならば治療師の譜術で癒すことが出来る。
 少年は詠う。
 たとえ母の瞳が最早生者の姿を映しておらずとも。
 詠う。詠う。詠い続ける。
 その時、在るはずのない赤子の泣き声が応唱したのを、ヴァンデスデルカは確かに聞いた。

(2006/01/10)