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残された男

 明月は天の高みで輝いていた。それは、王の圧政から解き放たれたトウケイの民へ久方の光を与えるためであるかのように、強く。
 その明かりの下、赤塗りの高欄に腰を下ろした格好で、男は楽器を爪弾いていた。四弦から生まれる万の音は、橋上から運河の一滴になって流れに溶け込み、街中をその柔らかな響きで包もうと渡っていった。
 ――鎮魂曲だ、とリオンは理解した。誰へ向けた調べかは定かでなかったが。
 最後の一音が零れ落ち、水面に波紋を生む。だが男は楽器に手を置いたまま、微動せず月を見上げていた。
「復讐ではなかったのか」
 道化た衣装や振舞いで隠しているが、男はアクアヴェイル王族に連なるシデン家の末弟である。彼がティベリウスを討たんと立ったその時、その決意を今は亡き愛する女性のためだとリオンたちは思っていたが、終幕を迎えてみれば、王族として国のために下した決断であったのかも知れない。
 不意に投げかけた問いに、けれど彼、ジョニー・シデンは驚く事なく応えた。
「さぁ、どうだろうな。俺にもわからんよ」
 曖昧な言葉だった。己の立つ理由を明らかにしたくない為か、それとも本当に定かでない為か、月に照らされる横顔からは読み取れなかった。
「ただ、ティベリウスを殺したってエレノアは帰って来ない。それは確かに分かっていたのさ」
 それは当然の道理だ。死者は生き返らない。
 けれどリオンは頷く事が出来なかった。
「……それでも愛したひとなのだろう」
 少年にとっては、それが万象の免罪符だった。愛する者の為ならば、自らの命を捨てる事も、何者かの命を奪う事も、厭うに値しない。
 ならば仇を討つことは男の権利であり、義務でもあったはずだ。
「だからこそ思うんだ。エレノアは復讐なんて望んじゃいなかった…ってな」
 反論の糸口をリオンが掴むより早く、ジョニーは軽く首を振り、言葉を繋いだ。
「ま、それだって俺が勝手に思った事で、本当に彼女が考えていたことなぞ、分かりゃしないがね」
 言いながら指先が弦を弾いた。短い旋律は漣となって空気を揺らし、リオンの羽織る外套の裾をふっと押しのけて通り過ぎる。物憂い溜め息に似た余韻が、少年の背後で月夜の闇に溶けていく。
 空隙があった。
 聞こえぬ声に耳を傾けるように、ジョニーは暫し沈黙した。ややあって、再び口を開く。
「結局、死んだ人間にしてやれることは何にもないのさ」
「なにもないだと?」
 問うたのは反射だ。
 瞬間、男の親指が四弦を撥じいた。びいぃん、と空気を裂いたのは出鱈目な不協和音。刃のように冷たく凍えた音の奔流が、リオンの身体に叩き付けられた。
 それは感情を自制し続けた男が道化の衣装に隠し持つ、鋭い切っ先そのものだった。
「じゃあお前さん、死人が笑ったり喜んだりすると思うか?」
 返されたのは、答えを求めぬ問いだ。
「死んじまったら何もかも終わりだ。彼女だって、生きてさえいてくれれば……!」
 吐き出された慟哭は、呪詛に似ている。
 リオンは動かなかった。暴力的な音に揺さぶられやや傾いだ姿勢のまま、絞り出すような男の声を聞いていた。
 やがて、ジョニーはゆっくりとした動作で帽子を深く被り直した。
「――やめとこう。それこそ生きている者の身勝手な話だからな」
 それきり口を閉ざした彼は、代わりに鎮魂曲を奏でた。旋律は優しく、時に沈痛な響きで揺れ動き、大地に染み渡っていく。
 残された男の孤独な魂を癒す為に。
 聞かねばならない事は、他にあったようにも思えたが、これ以上の言葉が無為であることは確かであった為、リオンもまた無言を貫いた。ただなにか、痛みのような痼りが鳩尾の辺りにある。そんな不確かなものだけが、最後に残った。