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カルビオラの奇跡

 今や変貌は首にまで至り、さすがのスタンも顔を歪めた。石へ変じた両腕を降ろし跪いた姿は、斬首の時を待つ罪人のようでもある。
 他の同行者たちは、グレバムの置き土産――次々と湧き出る魔物に手を焼いていた。個体はさしたる力を持たないが、どれだけ倒しても果てがないように思える数と、スタンの身で証明された人を石と化す邪視の力への恐怖に、彼等は疲弊していた。
 それらの様をリオンは見ていた。
 不思議なことに、彼の意識は今この神殿に在ると言うのにどこか遠く、目に映らぬ幕を隔てて外界を覗いているような、奇妙に浮いた感があった。
「スタンさんっ」
 フィリアが悲鳴をあげた。見れば、スタンの身体は最早爪先から毛の一本まで人間の物でない。
 彼女は祈るように神の名を繰り返し呼んだが、彼女自身を救わなかったアタモニに縋る価値などあろうか。過去、フィリアが石へ封じられていた際に彼女を人の身へ戻したのは、神の奇跡でない。他ならぬリオンの手である。
「アンタ、ボケっと見てないでフィリアの時のあの薬、出しなさいよ!」
 魔物の一匹にソーディアンの切っ先を突き刺した勢いのまま、ルーティが叫ぶ。
 空の手を示し、リオンは黙したまま首を振った。あの薬は確かに万能薬であるが、それゆえ製造が難しく高価で、いかなリオンと言えど、気軽に買い付けるものでない。
 その時、フィリアがはっと顔を上げた。
「もしや、パナシーアの秘薬では?」
 自問に答えを得ぬまま、彼女は日頃の鈍重な印象を覆す素早さで荷に飛びつくと、その中身を床に撒いた。
 リオンもまた気が付いた。パナシーアの秘薬の調合はストレイライズが独占する知識である。即ち、ストレイライズの司祭である彼女ならば作る事ができるのだ。
 しかし、調合道具を確かめたフィリアは項垂れ、肩を落とした。
「レメディの実が足りませんわ……!」
 知識ある聖職者が在ろうと、材料がなければ薬が作れるはずもない。
 スタンを救う術はない。
 伏した細い肩は震え、嗚咽を漏らした。何も知らぬルーティが、魔物を一掃した後に材料を採ってくれば良いと慰める。無意な言葉が耳に入ったその時、リオンの心の内側がかっと熱を帯びた。それは怒りだと、彼は思った。
 衝動に推されるまま、リオンは踵を返した。彼等が付いて来れぬのならば、一人で進むだけである。
 非難と、材料を探して来るように命令する甲高い声が背を追ってきたが、リオンは彼女の指示に従うつもりなど毛頭なかった。不足している材料は、極めて生息数が少ない魔物の体に成る実なのだ。第一、リオンの使命は神の眼を追う事であり、彼等はその人足に過ぎない。グレバムを捉える好機を逃してまで、彼等を助ける道理はない。
 ――しかし、そう自身に言い聞かせている時点から、平常心でなかったのかも知れない。
 物言わぬ石の像の視線が背中を追っているような気がするのは錯覚だ。人気が失せた神殿は太い柱や壁さえも幽暗と同化して見え、閉塞感を与えているに過ぎない。そう頭では理解しながらも、足は自然と早まり、気付けばリオンは神殿を飛び出していた。
 外界は月夜だった。足下から吹き上がる風の冷たさに、思わず首を竦める。その時、名を呼ぶ声が聞こえ、リオンは階下へ顔を向けた。
 バルックだった。応援のつもりか、傭兵らしき男たちを引き連れ、カルビオラの街の門を潜るところである。
「グレバムに逃げられた。いま直ぐチェリクに戻る」
 反転の指示に、だがバルックは眉を顰め、何事か考えに耽っているようだった。ふと、その視線はリオンの後ろに広がる夜陰へ向けられた。
「あれは!」
 神の眼の力で生み出されたあの魔物が一匹、リオンが開け放った神殿の扉からカルビオラの街へ這い出ようとしていた。
 咄嗟に左手で引き抜いたシャルティエを一閃する。天の月と等しい軌跡が、魔物の体を切り裂いた。幸い、一匹だけのようだった。しかし魔物が神殿の外にまで出て来たと言うことは、中に残っていたルーティたちも倒されたのだろうか。考えて、リオンは首を振った。どちらにせよ最早関わりのないことである。
「行くぞ」
 しかしバルックは直ぐに頷かなかった。
「スタンくんたちはどうした」
 足手まといは置いてきた、と答えようとした意志に反し、リオンの口は問いを返していた。
「いや――バルック、お前パナシーアの秘薬を持っていないか」
 無意はリオンが嫌悪する行為のひとつである。
 元々秘薬はオベロン社で扱っている商品でない。ストレイライズ神殿の支配が薄いカルバレイスに在庫があると思えなかった。案の定、バルックは困惑気に目を細めた。
「パナシーア? ……誰か毒でも受けたのか。解毒作用のある薬なら直ぐ用意できるが」
 毒なら動けるだけマシだ、とリオンは舌打ちした。
「梃子でも動かんから、奴らのことは放置しておけ。いまはグレバムを」
「リオン。北西にモンスターの巣がある」
 バルックが上げたその名は、いま一行が持たぬ秘薬の材料となる魔物に他ならなかった。
「レメディの実があれば、あのストレイライズのお嬢さんが薬を作れるのでないか?」
 促され、リオンは戸惑った。
 バルック・ソングラムは、ヒューゴの信任厚いオベロン社の幹部である。あの男の指示に不足なく応え、言外の要望も汲み取る事で出世を果たしたバルックが、この局面で選ぶ道が足手まといを助けることなのか。
 戸惑いをどう受け取ったのか、バルックは未だ幼かった頃の彼へしたようにリオンの肩を叩き、表情を和らげてみせた。
「なに、グレバムのことは問題ない。すぐ港を封鎖するよう伝令しよう」
「わかった……」
 頷いた瞬間、抱えていた怒りが消え去り、安堵が広がった。
 何に安堵したと言うのだろう。
 いや、彼等は王から同行を命じられた人員なのだ。神の眼奪還の大義と言えど、勝手に置き去れば任務への評価は下がろう。ならばグレバムの確保と、スタンたちの救出と、両立を望むのは当然の心理だ。
 誰に問われたわけでもなく、リオンには自分自身へその答えを与える義務があった。その行為がリオン・マグナスとして正しいものだと認めなければ、彼は行動できないのだ。
 けれど、胸奥の熱が怒りによるものでなかったと、リオン本人は気が付いてしまった。
「バルック、お前は中に突入してくれ。敵の残党が残っている。さすがの秘薬も身体がなければ無意味だからな」
「わかった」
 港への伝令と神殿への突入の指揮を任せ、リオンは駆け出した。バルックの指示か、傭兵の数人が追い掛けてくる足音も聞こえたが、振り返ることなくリオンはただその先へ進んだ。
 スタンは図々しくて、能天気で、馴れ馴れしい奴で大嫌いだ。けれどこの先永遠に、彼が動かず、喋る事のない現実を想像するのは、もっと不愉快で、恐ろしい。その恐怖が己の内にあることを、リオンは密かに認める。
 今はただ、人の身の温もりを取り戻した彼の一声が待ち遠しかった。