あの魔物がベリウス――?
言い様のない衝撃が頭から足先までを貫き、瞠目したハリーは呼吸の仕方も忘れ立ち尽くした。彼が気付いた時は、人の言葉を語る魔物は地に伏し、いつの間にか現れた帝国騎士の一隊が辺りを取り囲んだ状態だった。
「ここは任せる! ウィチルは私と一緒に来てくれ」
言い捨てると、釣り目の小隊長は黒衣の青年を追って姿を消す。逃走を謀るならばその隙であったろうが、それに思い至る前に、鮮やかな黄橙の鎧を身に付けた騎士に肩を捕まえられ、闘技場の奥で口を開いた巨大な檻へ押し込められてしまった。
充満する獣の臭いに、彼等の囚われた檻が元は魔物用の檻であると知れた。同じ檻に入れられた少女が不満を呟いたが、最早、ハリーには頷く気力もなかった。実際、彼にとってはどうでも良いことだった。
彼はただ一つの問いと向かい合っていたのだ。
打ち倒そうとした魔物こそが救うべき相手だったと言うならば、ハリーのしたことは、一体何だったのだろう。
――答は直ぐ其処に見えていたが、異なる解を渇望し、ハリーは自問し続けた。
その時、騎士たちがある方向を向き一斉に敬礼した。
「隊長!」
「特務中である」
発されたのは低く通る声だったが、続く言葉は聞こえなかった。疲れた表情で座り込み何事か呻いている者、檻の外に向かって罵声をあげる者――それらの喧噪が掻き消してしまったのだ。
と、不意にそれらの音が止み、空気すら色を変えた。数秒遅れてハリーが視線を上げると、檻の前には抜刀した騎士が整列していた。一人が鍵を差し込み、入り口を開く。束縛と自由の境界がそこにあったが、指折りの武闘派ギルドの面々も微動することはなかった。
檻の中を覗き込んだ騎士が、顎をすくうように引き上げた。
「出ろ」
だが、その仕草は澱んだ空気を僅かに掻き混ぜただけだった。
「早くせんか」
周囲から押し出すように小突かれるに至って、漸くハリーは指名されたのが自分であることに気付いた。
注視しているのは騎士だけでない。魔物の血に飢えた魔狩りの剣や、沈み込んだ戦士の殿堂の瞳が、一様にハリーを見詰めていた。
尋問か。
開放感など望むべくもなく、鉛のように重い足を引きずって檻を出た。騎士たちに挟まれ、俯いたまま闘技場の中を歩かされる様は、罪人の姿に等しい。
陰鬱な行進は、しかし高い扉の前で終わった。開かれた扉を潜ると、背後で戸を閉める大きな音がして、ハリーと騎士たちを遮断したのだ。
待っていたのは、予想外の光景だった。
そこは通路であった。見張りの一兵もなく、ただ先の戦いの爪痕が残されている。
柱の影に、紫の羽織を肩に掛けた男が待っていた。
「――よっ」
片手を宙に持ち上げ、気安く声を掛けてくるその仕草だけを見ていると、此処がダングレストの街角であるような錯覚があった。だが、辺りに満ちているのは酒の匂いでなく、血と獣の気配である。
その大事の中にあっては、見慣れた日常の光景こそが異常の極みであるような酔いがあり、両手に余る事態を抱えたまま、ハリーは立ち尽くした。
「ほら、逃げんのよ」
手品の仕掛けは分からずとも、檻を開き騎士を遠ざけたのが、目の前の男である事は明白だった。ハリーを助ける為に戻って来たのだ。
衝動的に、伸ばされる手を振り払った。
「オレのことは放っといてくれ!」
同時に、張り詰めていた糸が切れた。
ハリーは自身の内から沸き上がる後悔と怒りと恐怖の重みに潰され、低く呻いた。
騙されたのだ、海凶の爪に。奴らは帝国にユニオンを売った。死の商人が扱う商品は、いつの間にか人やギルドにまで及んでいたらしい!
そして、他ならぬハリーが、死を呼ぶ引金を引いたのだ。
耐え難い精神の苦痛は肉体にまで至り、ハリーは頭を抱えて踞った。堪えた涙の代わりに、嗚咽が漏れる。
男はその様子を黙したまま見下ろしていたが、やがて顎の無精髭をひと撫ですると、独り言を口にするような調子で嘯いた。
「盟友殺して、その上帝国に捕まったなんてことになったら、もっとじいさんに迷惑掛けることになるだろうね」
その言葉の語気は決して強いものでなかった。常の人為からすればいっそ冷淡ですらある。だが、沸する想いを沈め、為すべきを気付かせる力があった。
確かにハリーは罪人である。しかし帝国の法とは異なる、彼自身の規律によって裁かれる為に、今はこの場を脱し戻らねばならない。
規律が、法より恐ろしいとしても。
ハリーは畏れる心を掌に握り締めて立ち上がり、男を追って歩き出した。
夜明けはまだ遠かった。