知覚出来たのは大きく風が吹いた事だけだった。その次に、激しい衝撃と轟音を。
鈍い痛みが胸部にめり込み、そのまま鉄球が描く軌跡に従って身体が吹き飛ばされる。悲鳴を上げる余裕もなかった。そもそもその為の空気は押し出され、枯渇していたのだが。
「ロイド!」
甲高い声が自分の名を叫んだ。
同時に背を強かに打った事で、ようやく自分が地面に叩き付けられた事を知る。認識した途端、立て、と脳内で騒々しく警鐘が掻き鳴る。瞬間、殆ど本能的な動きでロイドは地面の上を転がった。重い地鳴りのような物が響き、先程まで身体があった辺りが深く抉られていった。背筋がぞっと冷える。
ロイドは剣先を地面に立てた。だがそれは震える膝を押さえる役に立たず、上体を起こすのがやっとだ。
霞む眼を周囲に走らせると、同じ攻撃を受けた小さな親友は、体重の差かロイドよりも数歩後ろまで転がり、身体をくの字に折り曲げ頻りに咳き込んでいた。あれでは術の詠唱等出来そうにない。もう一人の少女の方は二人ほど打撃を受けていないようだった。だが既に手持ちのチャクラムは投げ切った様子で、全身を緊張させている。腰が抜けているのかも知れない。何にせよあれでは助けにならない──第一ロイドにも矜持がある。守るつもりで剣を振った。だが。
三人を地に打ち据えた巨体のディザイアンは、鉄球を引き戻し口を歪な形に歪めた。勝利を確信しているのだ。ロイドは口惜しさに奥歯を噛み締め、しかし情けない事にその身は振り回される鉄球の風圧で傾いだ。
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打ち、脳が発する音は止まない耳鳴りにも等しく頭の中を埋めていく。けれど身体に伝播しない命令系統は混乱し、ただ思うのは。
ロイドは顔を上げた。出来ることはそれだけだった。ディザイアンが一際大きく鉄球を振り、やけにゆっくりと流れる時の中で腕を伸ばすのが見えた。鉄の塊が真っ直ぐ自分を目指して飛ぶ。
義父の仕事柄、鉄の強度ならば良く知っていた。恐らくこの身を一瞬で押し潰し、そして。
──死ぬ!
反射的に眼を閉じていた。痛いほどきつく。が──
まるで突風のようなものが脇を通り抜けたかと思うと、鋭い音が聞こえた。義父が金床で鉄塊を打ち据える音も似て聞こえたそれに続けて重い落下音。大地が揺れる。
覚悟した時が来ない事を知り、ロイドはゆっくりと眼を開けた。瞼の動きと連動して、身体の緊張も緩々と解けていく。
最初に見えたのは蒼い背中だった。二股に分かれた不思議な形のマントが風に揺れている。それから陽を浴び白々と輝く抜き身の剣。そして最後に、不自然な軌道で大地にめり込んだ鉄球。
助かった、より早く、生きている、とロイドは思った。安堵した瞬間全身からどっと汗が噴き出た。剣を握る手から力が抜け掛け、慌てて指先を回し直す。忘れていた呼吸を繰り返すと、吸い込んだ真新しい空気で肺が微かに震えた。
「あんたは……?」
吐き出した言葉は発したその端から掠れただ独白のように地に零れたが、前に立つ男には届いたらしい。深い緋に似た鳶色の髪が揺れ、僅かに動かされた顔から瞳が垣間見える。
紅い視線だった。手に下げた剣ほども鋭い光を宿した。
だが男とロイドの視線が交わったのは一瞬でしかなかった。ディザイアンは憤怒の色に顔を染め、引き戻す音すら激しく鉄球を振り翳し直していた。叫び声が上がる。意味などない、ただの雄叫びだ。
その声すら掻き消す音を立てて鉄球が回る。
ロイドは、鈍器がこれほど恐ろしい武器とは知らなかった。否、そもそも武器を持つ人と戦うのはこれが初めてだった。もっとも、ハーフエルフと言う種族であるらしいディザイアンを人と呼んで正しいのか、ロイドには判らなかったが、エルフであるリフィル先生も親友のジーニアスも人間と同じだ。その狭間の者ならば、つまりは人だろう。
義父の拵えた木刀を手に野犬や兎、時にはモンスターと戦った経験はある。使い手を自称したのは決して自惚れでないつもりだった。けれどそれは畏れを知らぬ子供らしい傲慢さでしかなかったのか。
震えているのは、受けたダメージの為だけでない。
だが──不当な暴力に立ち向かう事は間違っていない筈だ。
白い布が巻き付いた左手を剣ごと固く握り、ふらつく己が身を叱咤し立ち上がり構えたロイドの動きは、しかし低い声に遮られた。
「下がっていろ」
男がそう言ったのと、剣先を下げたまま踏み込んだのはほぼ同時だった。
一呼吸で間合いを詰めた男に驚いたのはロイドだけでない。ディザイアンもまたぎょっと眼を見開き、だが巨体に見合わぬ素早さで両手を上下に返した。その動きで鉄球を繋いだ棍の部分が男を襲う。棍と言っても、やはり鉄が仕込まれているものだ。
息を呑んだロイドの目の前で男の背は微かに身を沈めると、次の踏み込みと同時に剣を水平に向けた。振るわれる棍に自ら飛び込むように突進する。
その時空気が裂けた、ように見えた。
大地を蹴った音を残して伸び上がった男は、右半身だけを前に傾けると腰だめに構えた剣を突き出した。轟、と風がその周囲で舞う。
棍と剣先の間で火花が散った。が、鉄を張った棍はまるで小枝のように四散した。剣はそのまま驚愕に打ち震えるディザイアンの胸部に向かって、一直線に襲い掛かる。
がっ、と言う音が骨を折った音なのか悲鳴なのか、ロイドには判別出来なかった。
一呼吸置いてから巨体は盛大な音と共に仰向けに倒れ、胸から血を噴き上げた。
まるで現実味のない光景だった。絶命している。ただの一撃で、だ。
この御時世だ。ロイドとて人が死ぬところを見た事がないわけはない。現に今日この聖堂に辿り着く迄に祭司長の死をこの眼で確認しているのだ。けれど──人が、人を殺す現場を見たのは初めてだと思った。
「まさか貴様が現れるとはな」
黒髪を逆立てた男は口惜しそうに表情を歪め、撤退を命じた。聖堂の前を陣取っていたディザイアンたちが、その一声に従い崖を飛び降りていく。彼らが背を向けて逃げて行く様に、ロイドは思わず足を浮かせたが、男は追わなかった。抜き身の剣を宙で一降りすると、大きな所作で鞘に収める。良い音が鳴って、それきり聖堂は日々の静けさを取り戻した。