イセリアにはここ数日雨がなかったが、流れる小川の水気で土は程良く湿り、日中の間、陽に良く蒸らされた匂いを今は風に乗せていた。それを心行くまで吸い込んだ花葉は夕闇の中でも輝くようだ。
その真中に墓石がある。
ドワーフの流儀ではない。
佇立する長身の男の影がその墓を昏く染めた。否、男そのものが影のように見える。家の中から漏れる明かりで、影は闇の波間に漂った。
「この墓石は、誰のものだ?」
声を掛ける呼吸をロイドから奪い、影が振り向いた。
養父は良い石材を三層に組み合わせ、刻んだ紋様と同じ花をロイドに植えさせた。その香花が折からの風に花弁を添え、クラトスの足下に色を落とした。
左手に宿したエクスフィアが隠しの下で身震いしたのは、由来を知った気のせいか。
「俺の母さんだよ」
特とした意図もなく、ロイドは男の傍らに歩を進めた。
「――、か」
名を当てられ一瞬戸惑いを感じるも、直ぐに得心がいった。墓石にはその名が刻まれている。
ロイドは膝を曲げて墓の前にしゃがむと、母の名をなぞった。
アンナ。
名前の他には聖語の一つすらない。それで足りる。足下で眠る女性がどんな人であったかは、最早想像でしか分からない。けれどこの石に深く刻まれた母親の存在は、ロイドの心に確かに在った。
屈めた背に再度問いが掛けられた。
「父親はいないのか?」
突如、ロイドの奥底から沸き上がったのは声なき叫びだった。激流は彼の中から自身を押し流し、そして同じだけの速さで引いていった。
それは何と言う感情だろう。
名すらない父親の存在は希薄で、けれどロイドの何かを欠いている。
見上げた相手は、家の灯りも月も届かず読めない。闇であるクラトスを見つめたまま、ロイドは呟くように答えた。
「……知らねぇ」
言い切ってしまった後に残ったのは、意外な程穏やかな気持ちだった。
「ダイク親父が俺の親父だよ」
イセリアでは、ロイドの父親と言えば鍛治屋のダイクと決まっている。血の繋がりはなく種族も違うけれど、それは問題でない。何故なら養父が亡い親の代わりに与えてくれた温かいものは、寝床に食べ物、衣装ともう一つ。
不意に、先程コレットに言いそびれた繋がりに付けるべき名をロイドは知った。殴られた辺りが、今更じんと痛んだ。
暫しの後、唇の先で彼は笑ったようだった。澄ました笑い方だ、とロイドは思う。だが微かに震えた空気は、何処か温かく、何故か哀しげに戦慄いて感じられた。
「そうだな。変なことを聞いた」
すまない、と続けられた語尾は唐突に開いた扉の音に掻き消された。あ、と横合いから掛けられた親友の声は奇妙なほど明るく聞こえた。
「なんだ、クラトスさんもロイドも、そこにいたの?」
深い鳶色の視線が外れる動きに従い、ロイドも振り返る。
コレット達がそこで待っていた。
「戻るのか」
頷きが返されたのに応じ、傭兵は灯籠を受け取った。
「じゃあね、ロイド」
「バイバイ」
友人達が別れを告げながら小川を越えていく。
「ああ、また明日な」
ロイドも戸口まで戻り彼等に応えた。
大人達が火を移す為に籠を開ける。家の中にも火打ちはあるが、鍛冶場の火は神聖だから、他人に与える事はしない。代わりにロイドが戸口の灯りを分けてやる。その間クラトスは口を噤んでいたが、代わりにリフィルは時折見せる茶目な風に片目を瞑ってみせた。
「余り夜更かししないのよ」
見透かされている事に曖昧な苦笑いが浮かぶ。贈り物を作らない事には今夜は眠れないのだ。
支度が整い、行きましょう、と促されたコレットは身体を半分振り返らせた格好で立ち止まり、もう一度言葉を口にした。
「さよなら」
踵が返され、灯光が遠離っていく。一行を見送る間に少女は二度振り返り、微笑みを残しながら木立の中へ去った。
最早振り返す者がなくなった手を下げると、ロイドは意を決して家の中へ戻った。
養父は土間で竈に向かっていた。
「親父」
今すぐ言いたい言葉がある。
「さっきはごめん」
背を向けた養父の肩が大きく吸い込んだ空気で上下するのを、ロイドはじっと見下ろしていた。
自分が悪かっただとか、養父が悪かったとは思わない。養父が怒ったのはロイドの身を思っての事で、それを受け入れなかったのは自分の誇りだ。そして謝るのは、父の優しさを理解はしていても受けられないその事に。
振り向いたダイクはそんな事は分かっているんだ、と言いたげに口許の髭を撫でた。
「飯にするぞ。今日はお前の好きな鍋だ」
季節には少し早い好物が煮立つ音と出汁の匂いがする。ロイドは腹の音と一緒に出ていきそうな熱い想いを堪えた。
――養父が与えてくれたのは、食べ物に寝床、衣装ともう一つ。どれも温かに湯気を立てていた。