息苦しい暑さだった。
空気を求め口を開けば、吸い込んだ熱気に喉が灼ける。額に浮いた汗は珠を結ぶ余裕もなくただ零れ、服地に跡を残した。
陽射しと言う名の黄金の粒を撒かれ、砂の大地は輝くように燃えていた。
彼は半分ほど崩れた小屋の軒下に座っていた。しかし日陰の大部分は傍らに控える大型の獣が占めている。幾らか涼しげに見えるオアシスの畔を恨めしげに見つめ、彼はせめて庇となるよう広げた頭上の布を深く被り直した。
その時、小さな影が彼の足下に差し込んだ。
「いたいた、探したよ」
ロイド――と呼ぶ名は潜められた。
オアシスに引き寄せられるのは善良な旅人だけでない。特徴的な甲を着けた兵士達が、砂漠の道を行き来している。
ディザイアンによるロイドの指名手配は、異常なほど迅速に行われた。出立から三日目にはこのオアシスへ辿り着いたと言うのに、既に似顔絵付きの手配書が至る所に貼られていた。無論この周辺の兵が、すべてロイドの為に配置された訳はないだろうが、彼等を緊張させるには充分だった。
かくなる上は極力早くコレット達に合流するべきだ、と主張したのはジーニアスだ。コレットを守る為に追っている筈が、まるで助けを求めているような状況は、些か釈然としないものをロイドに抱かせたけれど。
先を急いでいる理由は、それだけでない。
ジーニアスは得てきたばかりの命綱を片手で持ち上げた。
「水、分けて貰えたのこれだけなんだ」
薄い皮袋の中で頼りない水音がする。
「ケチだな」
既に路銀は尽きていた。
勘定の得意な友人がやりくりに腐心してくれたが、元々ロイドの小遣い程度しか持ち合わせのなかった二人だ。オアシスまで辿り着けば、水は汲めると期待していたのだが。
「ま、それだけ水が大事なんだってことでしょ」
湧いて出る水があるとは言え、それも豊富な量でない。長過ぎた衰退の時代に、幾つの水が枯れたことか。
その貴重な命の源を分ける余裕はない。余所者相手には尚更だ。
大聖堂を持ち、神子の血族が住まうイセリアは、旅業の者が多く訪れる。破られたとは言え不可侵契約があったから、生活に余裕もあった。それでも外界から現れた異邦人へ向ける視線は厳しかった。その壁は、先日ロイド自身も改めて確認した事実である。
一層糧のない砂漠で、歓迎される筈がない。
大人のような事を言って、ジーニアスがその小さな肩を竦めた。
「それに、姉さんから聞いたトリエットの昔話だけどね」
ノイシュに首に荷紐を掛けながら、ロイドは相槌を打って続きを促した。
「悪い余所者がオアシスに毒を投げ込んだんだって」
口寂しいのか、ノイシュは頻りに紐を食む。それを宥めながら、少しばかりの食料と水を括り着け、長さを調節する。
「沢山の人が死んで、以来砂漠では余所者を水場に近付けなくしたのさ」
ロイドは空を映した水の面を一瞥した。その隣で、食むものを失ったノイシュが空っぽの口をもう一度だけ開けて、閉じた。
「飲まなきゃ良かったのにな」
「脱水症状で死ぬけどね」
試してみる?と、友人らしいからかいが返される。
「ま、その時に、当時の神子とも――女神その人とも言われる女性が現われ、源泉を清めて人々を救ってくれた御陰で、今もこのオアシスを使えるらしいけど」
砂漠の人々の信仰深さは、ロイドも感じるところであった。先日二人の護衛を連れ立ち寄った神子の、足跡一つをも拝まんばかりだ。けれど、
「でも、その女神さまだって余所から来たんだろ?」
菫色の瞳が空を仰ぐようにして、視線を向けた。
「……ロイドってさ、時々すごいこと言うよね」
そう言う友人は、彼の方が余程物知りだと言うのに、時々こう言ってロイドを揶揄するのと違う眼差しで見上げるのだ。
「そうか?」
「そうだよ!」
ジーニアスは大きく頷いた。それを合図と思ったか、ノイシュがふと立ち上がる。
神子の一行は、今朝方旧トリエット跡へ向かったらしい。そこに天使が告げた祭壇があるのか否かはロイドも知らない。少なくとも、大聖堂のような建物はなかろう。なにせその土地は大昔にトリエットと呼ばれていた都市の遺跡だ。伝説によれば三日三晩続いた大火で都市は潰え、以来一帯は不毛な焼けた砂の海と化したと言う。
「分かったから、ほら、乗れよ、ジーニアス」
何にせよ、ノイシュの足を借りれば今日の内にコレットに追い付ける。
ロイドはジーニアスを押し上げ、ノイシュの背に乗せてやった。お互いに慣れたスムーズな所作だが、草山によじ登るような形になるのは致し方ない。幾度か教え込もうとしたけれど、ノイシュは決して人を乗せるためにしゃがむと言う事をしないのだ。
高い位置から世界に臨み、ジーニアスは両腕を大きく空へ伸ばした。その時光を受けて煌めいたのは、マーブルの形見、右手の甲に宿した蒼いエクスフィアだ。
ロイドの左胸の辺りが微かに痛みを覚え、そして。
「そこの二人、待て!」
後ろから声を掛けられ、子供たちは思わず硬直した。
ゆっくりと首を捻り、庇の奥から相手を窺った。薄雲鼠の鎧甲を纏ったディザイアンがあの手配書を片手に、二人と一匹を観察していた。
「――」
強張った肺から硬質の息を吐く。
距離はおよそ、十歩分。
表情のない顔で振り返った友人に、ロイドは眼差しだけで応じる。音を立てずに唾を呑み込み、それが胃の中に落ちる瞬間、彼はノイシュの背に飛び乗った。
一度獣が大地を蹴れば、ただその場にあった乾いた大気も突風となる。風はロイドの頭上から布を取り去り、空の果てに放り投げた。そこに手配書と同じ姿を確認したのだろう。背後のディザイアン兵が今頃になって大声を上げたが、地を駆ける限りこの獣に追い付くものなどない。
あっと言う間にオアシスを抜け、砂丘を一つ越える。思わず口笛を吹きかけたその時。
背中から肩口にかけて、衝撃が走った。それが痛みであると理解するよりも早く、ロイドの身体は蹌踉け、力の抜けた四肢は宙に浮いた。
ジーニアスが唖然と、それを見送っていた。
何某かの声は上げたかも知れないが、舌が痺れ言葉になってはいなかった。
世界が逆さまにひっくり返される。
彼の感覚が最後に捉えたのは、落下する自分と、意識を塗り潰した白い光だった。