嫌な予感は初めからあったのだ。
無機質な天使たちのなかと違い、騒々しい人混みは、思いのほか二人に疲労感を与えていた。見知らぬ茶店の扉を開けようとするくらいに。
だから、クラトスが無警戒に扉を開けようとしたユアンを制止したのは、研ぎ澄まされた剣士の勘が働いた僥倖に過ぎない。そしてその僥倖をふいにしたのは、己の業ゆえとしか言えないだろう。
休んでいこう、とユアンが指差したのは、繁栄世界では珍しい、暖かみある木造の店舗だった。別段怪しい所はない。配色や微かに見える店内の配置は少々古めいた印象があって、それが懐かしさを誘ったのかも知れない。
「……待て」
反論の所以はなにも勘だけでない。もう少し行けば、テセアラ王室御用達菓子店があるはずだった。
対する青緑石の視線は冷然と返された。
「相変わらず貴様は保守的だな」
茶店のひとつやふたつの選択肢で保守性を論じられるのは、クラトスに理不尽と不快を感じさせた。そもそも、保守的でなにが悪いと言うのだ。
だが、彼は疲れていた。
「良かろう」
発した声は低かった。水を欲していたのだ。
「好きにするが良い」
そして二人は、異次元へ続く扉を開くことになった。
「いらっしゃいませ」
現れた給仕は、よく訓練された動きで素早く二人の退路を断った。ただし、真の死地を幾重もくぐり抜けたクラトスからすれば、些か踏み込みが甘い。その程度の相手に付け込まれたのは、隙を生んだ自身の失策だった。
「お二人様ですか?」
本来それは確認するまでもないことだろう。連れはこれ以上不要だ。そう思いながら鷹揚に頷いてみせる。
席まで先導する、と給仕が言うのに任せ、足を踏み出した瞬間、奇妙な失調感がクラトスを襲った。背に緊張が走り、腰に帯びた剣が強く自己主張したことを意識する。理屈などではない。戦場で培った、自分の命を預けるに足る勘が警告を発していた。
クラトスは緩やかに歩を進めながら、視覚に因らず周囲を探る。だが殺気はおろか、不審な気配もない。
給仕が歩みを止め席を示した。一瞬考えた後、ユアンを手前に座らせ、自身は店内を見渡せる位置に席を取る。
水の入った杯を置きながら、給仕が問うた。
「お客様、本日お食事はご利用ですか?」
「いや」
クラトスは否定の言葉と共に軽く首を振り、噛み合わぬ感覚を振り落とした。必要以上の緊張は神経を摩擦する。適度に注意を払っていれば充分だろう。
「それでは、こちらパイメニューになります」
指示に従った給仕は一枚の品書きを置き、静かに立ち去った。
そこには気品と悪趣味とが際どい配合で混在していた。葡萄酒に似る色の上に、何種類もの焼菓子が並べられている。その下には飲み物の名。
添えられたガルドの額は一流だった。内容がそれと等しいものであるかは、これから自ずと知れようが、予想外の出費である。クラトスは、沸き上がった考えを少々苦く思いながら奥歯で噛み殺した。路銀はある。しかし、あるからと言って使って良いものでもない。それが、長きに渡り苦難の旅を続けた彼の持論であった。
となれば選べる品目は狭まり、二、三自問する内に決まってくる。
「ご注文がお決まりでしたら、お伺いいたします」
良い頃合いでかかった柔らかな女給の声に顔を上げ、そこでクラトスは動きを止めた。
初めに、陽を燦然と浴びた柑橘類に似る蒲色が視界を奪う。その鮮やかな前掛けが真白い上着を締め付け、豊かな膨らみをはち切れんばかりに押し上げている。
それは実に破廉恥で扇情的な衣装だった。
繁栄を存分に謳歌したこの世界の、衣を幾重にも重ねる流行と一線を画している。ことにメルトキオでは、裾をふんだんなひだ飾りで彩ることが多いが、この服は襟元だけを縁取るに留まっている。なにより、注文を書き留めようと筆を握る手は、細い二の腕までが曝されている。貴人であるほど肌を隠すテセアラでは異端の存在といえる。もっとも、シルヴァラントの気候ではこのような衣装自体がありえない。あの大地は、風精霊と火精霊の影響で存外乾燥しているのだ。
衝撃に硬直したクラトスの向かいで、ユアンはふむ、と頷いた。
「ダークチェリーパイと珈琲を」
彼の声は常となんら変わらず、その事実にクラトスは再び愕然とした。
「貴様はどうする」
水を向けられ、ぎこちなく女給を見上げる。
その衣装はやはり異様だと思われた。たわわに実った胸が前掛けの上で揺れている。左襷の高い位置に赤いハートの銘板が付けられていた。記された名は──否、それは関係ない。
乾いた声が喉に引っ掛かりながら落ちた。
「……珈琲をもうひとつ」
高い位置でひとつに纏められた髪が軽やかに揺れ、注文を書き取り、辞する。
不当な緊張を強いられる時間が終わったと息を吐き出した瞬間、クラトスは己の警戒が不全であったことを知った。
女給が向けた背には、前掛けを絡げる幅広の帯が風変わりな形状で結ばれていた。その下には揺れる動きも顕わな臀部、そして伸びた二本の脚。無論、脚があることが問題なのでない。問題は、前掛けと同じ橙に染められたスカートにある。仮にも大通りに門を構える茶店であるし、この衣装は裾を窄めて作られている為、あられもないことになる可能性はあるまい。だが、クラトスには些か丈が短か過ぎるように思えてならなかった。
その証拠に、見よ、彼女の足が心地よい拍子を刻むたび、危うい位置で動く鮮烈な彩に意識を掻き乱される。この戦神と呼ばれた男が、だ。
先に一息ついたらしいユアンが水を飲み干す。杯の中で氷が転げ、涼しげな音を立てた。
「目的は概ね達したわけだが、どう思う?」
ただし会話の調子は、かつて泥水を啜っていた旅路のものと大した違いを持たなかった。
歪に連鎖する衰退から脱したシルヴァラントと、繁栄から追われたテセアラ。二つは一つとなり、大いなる実りで結ばれた。
本来の形を取り戻した世界を旅したのは、星と共に去る前に、自分達の年月や理想、或いはその喪失がもたらした結果をこの眼で確かめておきたいと言う義務感ゆえだが、その奥底に、四千年前のあの日々を懐かしむ気持ちがあったことは否定できない。
「こちら側に思ったほどの混乱は起きていないな」
問う形を取りながら、ユアンは自身で言葉を続ける。
「そのようだな」
クラトスはようやく強張った頬を解し、首肯した。
「政が乱れていない。私も安心した」
そこに先程の女給が現れ、注文の品を並べた。クラトスの目の前に置かれたのは、酷く独特の形状をした白磁の器である。
戦場の酒宴で用いた高杯を思い出させるそれを持ち上げれば、芳醇な豆の香りが立ち上り鼻孔を慰める。苦味の中に豆の持つ酸味と糖分とが絡み合い、複雑で繊細な味わいを咥内に広げた。
ユアンの方にはそれに続けてもうひとつ、青い草花の意匠が縁取る皿が置かれた。薄い生地に、濃赤に熟れた大粒の桜桃が皿まで零れるほどふんだんに乗せられている。生地の上に添えられた真白いクリームが、果実の深い色を引き立てていた。
「人間は成長した」
ユアンが吐息の先でそう呟き、銀のフォークを持ち上げた。視線にあてられた菓子が、柔らかな身をふるりと震わせる。
「我等はそれを見ようとせず、ただ押さえ付けていたのかも知れぬ」
その言葉に、クラトスは密かな微笑を湛えた。人間を嫌っていた同志が、少しは自分達種族を認めてくれたことが有難い。それに、息子が掴み、これから生きていくだろう世界だ。幸福な想像図を描けるならば、その方が良い。
やっと肩の荷が下りたように感じ、クラトスも珈琲を楽しんだ。
疲弊した体と乾いた喉に染み渡っていく。今では子供たちすら好んで嗜むこの飲み物も、かつては、飢えと疲労を和らげる貴重な薬湯としてハーフエルフたちの間で伝えられていたものだ。ただし、古い旅の間に振る舞われたそれはお世辞にも美味いものでなかった。実は真紅でありながら、豆を取り、煮出すと不吉な漆黒の液体となり、慣れぬ舌にはこれ以上なく苦い。クラトスは当初、これを好んで飲む異種族の同志たちを酷い味音痴だと信じたものである。
ふと、明るい話し声に視線を上げれば、別の女給が向かいの席の客に料理を振る舞っていた。なに、後姿であれば丈が短いだけの衣装に過ぎぬ。決して春を売っている訳でないのだから。そう思って見れば、心乱されることはない。
その時、高く澄んだ音がして、客の一人が食器を落とした。卓下に銀の光が転がる。
女給は身を屈め、手を伸ばした。
その瞬間、どん、と音を立ててクラトスの右手が持ち上げていた杯を机に戻した。飲み込もうとしていた息が、肺の奥底から吹き上がった空気と衝突し、脳髄にまで響く一打を与える。
クラトスの目の前で、蒲色のスカートが危うい位置まで持ち上がり、その奥の──
「どうした」
友の声は酷く乱暴にクラトスの意識の端を掴まえ、現実へ放り投げた。
無様な顔をしているに違いない、と思う。今更ユアンを相手に取り繕う必要は感じなかったが、せめて見苦しく在ることだけはすまいと、波立つ感情を抑える。
「ユアンよ、まだ食べ終わらないのか」
二度ばかり瞬きして、ユアンは首を傾げた。
「なにを怒っている」
「怒ってなどない」
けれど発した言葉は苛立ちを白状するのと同じように響いた。
それゆえユアンはしたり顔で頷くと、反論の隙を与えぬ調子で断言した。
「栄養が偏っているから怒りっぽくなるのだ」
その前にユアン自身の状況認識能力を強く疑うべきだと言う罵りを、クラトスは沈黙で飲み込んだ。彼と弁舌を競った所でなんになろう。
努めて呼吸を鎮めた鼻先に、不意に桜桃が突き付けられた。
「喰うか?」
悠然とした連れの態度に、今度こそクラトスは怒気を抑えなかった。
「いらん!」
確かに己の両眼からは奥底の渇望が溢れているのかも知れない。だがそれは、ユアンが早く食事を終えてくれることを願うものだ。
クラトスは苛立ちのままに杯を傾けた。それも、最早食道を落ちていく熱しか感じぬ。会話は意識の上澄みを滑っていった。
永劫とも感じた時間の末、食器を置き、ユアンが破顔した。
「うまかったぞ」
凡そ独創性を感じない賛辞だったが、それは問題でない。
「それは良かったな。では行くぞ」
クラトスは立ち上がり、しかし連れがそれに従わず首を振ったのを見た。
「珈琲がまだ残っている」
食料を無為にするのは本意でなかった。
仕方なくもう一度腰を下ろし、これ以上なにも視界を侵さぬよう、杯を取り上げるユアンの指先だけを見つめる。
その時、机に影が落ちた。
「珈琲、お注ぎしますか?」
女給の声からクラトスは反射的に顔を背け、その一瞬に、ユアンの回答を許した。
「戴こう」
止める間もなく、杯に御変わりが注がれる。
クラトスは唖然として顔を正面へ向け口を開き、しかし如何なる言の葉も乗せることがないまま閉じた。忍耐と沈黙が常に美徳とみなされる訳でないことは理解していたが、文句を言うべき時は既に逸していた。
女給が継ぎ足した珈琲を再び胃に流し込む。ユアンへの苛立ちばかりでない。珈琲を注ぐ女給の、はち切れんばかりに持ち上がった上着の合わせに桃色の肌着を垣間見た、その記憶を押し流すためにも必要なことだった。
「どうした」
ユアンが先と同じ問いを繰り返し、青い双眸を煌めかせた。
「先程からおかしいぞ、クラトス」
奇怪しいことがあるとすれば、この茶店の異様な一面に気付かぬユアン本人でないだろうか。それとも気付いていてこの態度なのか。だとすれば、狼狽えている自分は滑稽に違いないが。
他の店が閉まる前に息子へ土産を買っておきたい、と巧くない嘘が吐いて出た。ここは繁栄世界で、未だ陽も明るいと言うのに。
「忙しないことだ」
もどかしさが散々に身体中を這い回った後、ユアンがようやく重い腰を持ち上げた。
機を逃さずクラトスも立ち上がり、帳場にて手早く会計を済ませる。また後ろからユアンがなにやら言ってくるのが聞こえたが、極力その声を排除する。撤退を恥とは思わなかった。例えどう思われようと、この場から逃れることが先決なのだ。
遂に枷杭を払い、振り返ったところでクラトスが見出したのは、ユアンの顔に浮かぶ満面の笑みだった。
「なんだ、貴様の奢りでいいのか」
誤解を解く術はクラトスの手の中になかった。
「有難うございました」
給仕らの声を背後に扉を潜れば、そこは間違いなく、メルトキオの大通りである。
帰ってきたのだ。
強い感慨に襲われ、出てきたばかりの店舗を振り返る。見上げたそこにクラトスは名を見出した。それは決して褪せぬ愛と同じ、胸の奥底を揺らす響き。
だが記憶の中の彼女と、この一時立ち寄った茶店での衝撃を、同じ名により共有することは躊躇われ、クラトスはそれを見なかった事にした。もっとも天使の脳がそのように都合の良い記憶の仕方をしてくれる物か否か、彼には分からなかったけれど。
やがて雑踏がクラトスとユアンを呑み込み、場を生命の喧噪で満たした。
二人が後にした店の名は──