ダリルシェイドには雨が降っていた。
その屋敷は厚い壁で出来ていた為防音性に優れていたが、それでもじっと横になって耳を澄ませていれば雨粒が地面に叩き付けられる音が聞こえる。この街が沈んでいるのは止まない雨のせいなのか、それとも人々の憂鬱な声が雨を呼び寄せるのか、どちらなのだろうと埒も明かない事をふと彼は考えた。
そもそも、ダリルシェイドに来てしまったのは何故だろう。
此処に誰か──いや、最早失う物もないのだから自分自身にはせめて正直に言おう──彼女が居ると、そんな期待をするほど弱くないつもりだった。生きて幸せに暮らしていてくれればそれで満足だったし、今更会わせる顔もない。それは当然裏切った仲間たちに対してもそうだったから、彼の足は頑ななまでに思い浮かぶ面々がいそうな土地を避けた。もしかすると、そのせいかも知れない。荒廃したこの街には、顔見知りがいない筈だったから。
けれども逃げを選んだその決断は結果的に自分を追いやっただけだ、と彼は心中に呟き、マントを広げて身体を包み込んだ。背中から語りかける声が──ちゃんと毛布にくるまらないと風邪をひきますよとお節介を焼いたが、彼は溜息を吐き捨てるのにも似た気のない返事を返すに止めた。雨音を聞いていたから神経が疲れてしまったのか、動くのが億劫だったのもあるし、一度死んだ人間がたかだか風邪を恐れると言うのも馬鹿馬鹿しい感じがした。
そのまま瞳を閉じると、今の世界からは18年前の事になる当時の事がありありと脳裏に浮かんだ。
此処ダリルシェイドはセインガルド王国の首都として栄えに栄えた街だった。舗装された石畳の道。その両脇には美しく大きな門構えの家が立ち並んだ。各国への連絡船はひっきりなしに港を出入りし、嗚呼その道の角には彼女が良く行くと言っていた良い生地の店もあった。中でもオベロン社の中央本店は連日多くの人で賑わい、活気を見せていた。町の北には悠然とそびえ立つ王城。そしてそこから程近い位置にある彼の生家は、一市民の物としては余りに贅沢すぎる格式を備えた邸宅だった。
それが今はどうだ。過去の栄光など見る影もなく、ただそれに縋るだけの人々が、明日への希望もなにもかも失くして彷徨っている。外郭の落下で狭まった路には性質の宜しくない追い剥ぎ紛いの連中が潜んでいた。後で建てられたらしい見覚えのない七将軍の記念像とやらは、そんな街に対する何かの皮肉だろうか、と彼は嘲笑いたくなった程だった。出来るわけもなかったが。
そうだ、この街を裏切ったのは自分だ。と彼はうちひしがれた。この街の惨状の総てが、自分を責め立てているようにすら感じた。
どんなに雨が降ろうとも、彼の罪は消えない。
これはその罰なのだ。
そう思うと、彼は気持ちが滅入るばかりでいながらこの街を出て行く気持ちにもなれなかった。こうして独り雨の音でも聞いて己の罪を思う事こそが、自分に相応しいのではないかと思ったのだ。別に彼は自分の決断を後悔していたり、やり直したいと思っていたわけではなかった──もう一度あの時に戻っても、同じことをするだろう自信があった。が、自分の行動が引き起こした結末から目を背けられるほど子供でも、不誠実でもなかった。
それに、これからどんな行動をしてもあの女に踊らされるのではないか、と言う嫌悪感もある。彼を蘇らせた女が何を考えているのか、それは計り知れないところだったが、十八年前にあの恐ろしい計画者に操り人形として動かされていた自分の事を思い出すと、例えどんな内容であれ良いように使われたくなかった。
眉間に皺が寄っているのを感じながら彼は寝返りを打とうとして、不自由な首に気が付いた。装着したままの仮面が邪魔をしていたのだ。十八年も経っていれば……と言う意識もあったのだが、彼は顔を隠す事を選んだ。罵られるのは未だ耐えられると思ったが、ふとした拍子に会いたくない彼らに見咎められるかも知れない、と言う淡い期待にも近い懸念があったのだ。もっともその理由とは別に、この仮面を着ける事に対して背中から聞こえる声はまたなにやら喧しい事を言っていたようだったが。
と、雨音をかき消して複数の重い足音が響いてきたことで、彼は背中に緊張を走らせた。
彼が今いるこの屋敷は神団が買い上げた物らしかった。現にある司祭の名を発見して一瞬息を止めたのだが。高価な調度品などは取り外され、特別改装もしていない風だと言うのに趣が変わった事に少し時の流れを感じたものだった。この部屋は倉庫として利用しているようだったから自分がいても邪魔にはならないだろうと検討をつけ、当面の寝所として潜んでいたのだが、気付かれたのだろうか。しかし、それにしては警戒心のない歩みだとも思う。なんにせよ剣だけは何時でも抜けるように手を添え、彼は息を潜めた。
分厚い扉が開かれ、どさりと大きな荷物が床に落とされる音がした。