イクスのとある一日 1

 目覚めと言うのは、唐突に訪れるものだ。
 イグゼフォム・カルバニルの場合、目覚ましが起き出すよりも数分早く脳の活動が始まるのが通常だった。
 いや、彼の場合は目覚ましなど不要なほど、予定している時間に起きられる。しかしこの目覚まし時計は先日教室の後輩であるリートから贈られた物で、律儀なイクスは毎夜セットしていると言うわけだ。
 一度目を開けるともう眠気を感じないのがイクスの特徴で、さて今日も一日頑張るかと大きく伸びをしたついでに、頭上の棚に設置された目覚ましの設定を切──ろうとして。
 かつっ。
 出した場所が悪かったのかその手は時計の胴体を払っていて、あ、と頭の片隅が警告を発した時には。
「──っ痛〜」
 真っ逆様に鼻を直撃したそれは、眼に涙を滲ませるイクスの様子など気にもかけずに耳障りな電子音で『起きろ、ばかぁ』と叫んだ。

 着替えと洗顔で、なんだか朝から晴れなかった気持ちを切り替えると、イクスは先程顔面衝突した時計を棚に設置し直してふむ、と考え込んだ。
 未だ時間がある。
 それなら自炊でもしようかと思い付いて、イクスはいそいそとエプロンを身に付けた。ここで期待させて申し訳なかったが、このエプロンはアーデリカからこの前の誕生日に贈られたごく普通のエプロンである。
 イクスが一人部屋の特権を特別活用したことはないが、この部屋の前居者が改装の果てに置いていった小型の冷蔵庫とキッチンカウンターは有り難く使わせて貰っている。
 さて何があったかな、と冷蔵庫を開ける。
「……」
 ぱたん。
 思わず反射的に閉じてしまって、イクスは瞠目した。それからもう一度開けてみる。
 なんだこれは、と思わず口が開いた。
 玉子入れケースに、明らかに玉子でないものが入っている。
 ──しかも動いているような気がする。
 ごくり。
 唾を飲み込む音がやけに大きく鼓膜で響いた。
 いざ、尋常に勝負! と言う勢いでイクスは玉子入れケースを開けた。そしてそのまま閉めようとする手の動きを必死の精神力で止める。
 生きている!
 誰だこんなの入れたの。
 しかも中に白いもの──おそらく殻だろうものが散らばっている。
 中で孵化したのか?!
 そうだろうな。俺はこんなもの産み落とした記憶……あ、いや有精卵なんて入れていないぞ。
 様々な言葉が溢れては、脳裏で弾け飛ぶ。
 呆然としつつイクスが両手にすくいあげたそれは、黄色い小さな身体を震わせる一匹のひなだった。まだ眼も十分に開いていない。
 そう言えば昨夜はロアンとリートとスィフィルが部屋に遊びにやって来たのだ、とあの時の騒ぎを思い出し、イクスは眉を顰めた。
 その時にやられたのか?
「可哀想に、一晩中……寒かっただろ?」
 ロアンかスィフィルかは知らないが、酷い仕打ちを受けたひなに不思議と親近感が沸き、イクスは優しく語りかけた。
 親指で軽く撫でてやると、気持ちよさそうな顔をしている……気がする。
 ふわふわの毛が暖かく心地よかった。
 ……。
 ──暖かく?
 ふと冷蔵庫をもう一度開く。涼しい冷気が流れ出るはずの、その箱からはしかし。
「設定温度、38度!?」
 ひなを手にして、イクスは激しく自失した。

 どうやら冷蔵庫に入れてあった食材で本当に危険なものは、誰だかが避難させたらしい。
 よくよく確かめれば、殆ど食べる物の入っていない冷蔵庫に納得のいかない安心をしつつ、イクスは取り敢えずひなを空箱の中に入れ、選択幅の狭められた中からバターと、はるかからお裾分けで貰った漬け物を取り出した。
 その乳製品がみっともないほど溶けている事は不問に処す。
 結局朝の腹ごしらえは、パンと漬け物とグレープフルーツと言う形で簡単に済まされてしまった。少々物足りない気もするが、今度は今から食堂へ行くほどの余裕がない。
 イクスは制服に腕を通すと、思案の末にその胸ポケットへひなを入れてみた。
 意外にも居心地がよさそうな顔をするのを見届けて、部屋を出る。
 教室長として第一の日課、担当教師と今日一日の諸事務確認が彼を待っていた。

 そんな職務に忠実な教室長を出迎えたのは、怠そう眠そうやる気なさそうこの上ないルクティ教師である。
 基本的に、ルクティ教師の教室管理方法は『教室長に一任』であるとされる。この教師が就任前の公安時代に主から『事務はルクに一任』と言う仕打ちを受けていたことの意趣返しであろうか。標的をイクスにしている辺りが頭脳派だと言えよう。
 毎朝の恒例事務であるこの会合では、主に院からの伝達事項を受け取ったり、教室授業がある場合はその内容に関しての打ち合わせを行う。
「……今日は、来て頂いてなんですけど。伝達は別に……私の授業もないですよね。では」
 ナイトキャップを被り直した教師に門前払いされたイクスは──ルクティ教室においては、これも特別珍しいことでない。一度これで本当に大切な伝達があった時には、冷や汗をかかされたものだが──
 教員棟を辞したところで、アーデリカとはち逢った。
 Tシャツにショートパンツと言うジョギング帰りの彼女は、“武”筆頭教師のもとで教室長を務めているだけあってか、引き締まった四肢が少し眩しい。
「あ、出遅れちゃったわね」
「珍しいな」
 お互い苦労性の二人は、学年こそずれてしまったが同期入学のよしみで仲が良い。件の漬け物をはるかからイクスへ回したのもリカである。
「わたしも一旦寮に戻ってから伺うわ。途中まで一緒しましょ」
 まだ各教室長が始動し始める朝の時間帯。人気の少ない通りを二人は並んで歩いた。
 明るい日差しが差し込み、花壇の花を咲綻ばせる。
 そんな院ならではの美しさに包まれた道すがら、二人が交わす言葉と言えば。
「──でもそう言う時は先に周りを封鎖して」
「──初動人数が三人に決められているから、そこまで割けるかな?」
「──陽動系の魔法を……」
「──それなら……」
 白熱して、周りの光景も見えていなかった。

 寮の玄関を通ったところで、階段を駆け下りてきたスィフィルとリートを見掛ける。
 正確に記すると、半分寝ぼけ眼のリートがスィフィルに手を引っ張られ──と言うより半ば引きずられて現れ、そして怒濤の勢いで去っていくのを見送ったのだ。
 二人に会ったら、未だポケットの中で睡眠中のひなの事を聞いてみようかと思っていたのだが、そんな気が起きないほどの勢いだった。
 何があったのか、と考えるのもどうかと言われるほど、スィフィルの暴走とそれに付随しているリートの姿はよく見掛けられる。しかし一応二人を心配し考えてしまうのがイクスのイクスたる所以だった。
「一体なにを……?」
 思わず言葉が漏れる。
「スィフィル君は、今朝入る食堂の新メニューを誰より早く食べたいのです」
 男子寮に寮番として置かれていて、今イクスの一人ごちた事に反応を返したのは、鋭角のボディが機能的なロボット“ゼロ”であった。フォウルの発明品にしては文句の付け所のない──などと言えば失礼だが──存在だ。
 少し文法を間違うことに目を瞑れば、満足のいく会話まで出来る。ただし彼の音声認識システムが同音異義語に弱いのはいかんともしがたい。
 礼を言って、イクスは部屋に戻った。
 先程親しい二人が駆け下りてきた階段を落ち着いてのぼりながら、冷蔵庫にひなを入れたのが誰の仕業かははっきりとしないが、拘るほどの事でもないと感じていた。
 この胸に収められた暖かい温もりが、もう愛おしい。
「息苦しかったか、ごめんな」
 部屋に入って扉を閉め、一人きりになったのを確認するとイクスはポケットからひなを出してやった。まるで人に隠れて秘密の基地を作っているような、そういう感じだ。
 だがその時視界に入ったポケットの中には、焦げ茶色の小さな物体にまみれていて、イクスは速やかに制服を脱いだ。

 ひなは、尾の先端だけが少し青味がかった体をしていた。
「何も食べなくて平気なのかな?」
 試しにまだ皿の上に残っていたパン屑をくちに持っていってみるが、ひなはぴいぴいと甲高い声をたてるだけだ。
 どうしようかと思いつつ、ひなのことばかり気にもしていられないのが事実だ。
 昨夜の内に整えてある本日の授業準備を点検し、洗濯物を自動洗濯機に放り込む。本来は先程のゼロに洗濯物を出せば新品同様に洗い直してくれるのだが、下着類まで持っていく事がどうも気が引けて、これだけは部屋に備え付け自分でなんとか出来るようにしてもらった。
 機械なのだから、気にする必要はないのだろうが。
 取り敢えず例の汚れてしまった制服だけはゼロに頼もうと思い、イクスは念の為にひながその気になれば出ていけるように窓を開けておくと、階下へ逆戻りした。
 のぼりよりは確実に早いペースで降りると、ゼロに制服を預ける。そこで逸る気持ちを抑えリート以外の教室員たちの様子を聞くと、果たしてリート以外は見ていないと言う。
「おい、レイヴ! 起きてるか?」
 彼が寝過ごすような事はないだろうと思ったが、一番近かったその部屋に声を掛けてみると、中から開いてると声が掛けられた。
 招きに応じて中に入ると、早くも机に向かっているレイヴと、なにやら香ばしい匂いのするものを食べているシィン。
「……チキン?」
「そうだけど」
 予想もしていなかった部分に反応され、シィンが呆然とイクスを見上げる。イクスの方も自分では何やらよく分からないのだがそれが気になって、他人が見れば明らかに引きつった愛想笑いを浮かべ退出した。
 足早に次の部屋……ロアンと同居者の部屋へ向かう。
「ロアン! 起きて──」
 どたん、ばたむっ。
 口論の声。
「──るんだな、よし」
 珍しい事に、騒ぎが我が身に被害を与えないうちに回れ右出来たイクスは、最後にラメセスの部屋の戸を叩いた。
 特殊な力を込められた木材によって作られたその戸は、しっかりとした振動を拳に伝える。
「ラメセス」
 呼び掛けは戸に吸い込まれ、イクスは溜息を吐いた。
 不在、だ。
 中を確認するまでもない。院の上級生たる者、生命反応には過敏なのだ。──そう、相手が敢えて気配を消しているのでもなければ。
「……起きてるなら、授業出ろよ」
 言葉は、やはり届かなかった。