イクスのとある一日 2

 鋭い剣戟の音が鳴り響いた。
 まだ授業で使用される前の競技室では、日々鍛錬を怠ること許されぬ院生たちが思い思いの訓練を行っている。
 それに交じった一角で、焦げた茶色の髪の戦士が長剣を振るった。
 受け止めるのは二メートルを超えるのでないかと思われる大男だ。茶髪の戦士──イクスもかなりの長身なのだが、並ぶと小柄に見えるほどだ。
 その顔のあるべき部分には、狼を思わせる獣頭が乗っていた。
 今度は獣人がその隆々たる腕で振った長刀を受けて、イクスは後方によろめきかけた。それを踏み止まると、手首を返して下から斬り込む。
 がつっと鈍い音がして、二人はお互いに飛び退いた。
 どちらも隙はない。手にしている得物は、刃を潰してあるとは言え当たれば怪我をしかねない。
 ふいに。先程までの勢いが幻であったかの如く、両者は向かい合ったまま微動だにしなくなった。静かに相手を伺っている。しかしその気だけは共鳴を起こしているように徐々に高まっていく。
 同じ競技室にいた周辺の者が、思わず視線をやる。
 各々が張った結界の為に、普通ならばその外のことは気付かないものだが、直ぐ傍で行われている仕合に皆優れた戦士としての本能が喚起されたのだ。
 イクスが半歩だけ間を詰めた。
 瞬間、一息に両者の距離が縮まると激しい音を立てて交差し、二人の武人は動きを止めた。
 弾き飛ばされた長刀が、結界に当たるよりも早く誰かの飛ばしたスペルに捕らえられて宙で固定した。少し間を置いて、イクスの手にした長剣がぴしりと音を立てて砕けた。
 周囲が、それぞれに心中で批評しながら訓練に戻る。
 長い緊張から解かれたイクスが、深い溜息を落として壁際で腰をついた。こうした読み合いの勝負になると、端から見えている以上に疲れるのだ。獣人は自分の得物を取りに大きく空に跳躍して、それからイクスの横に戻ってくる。
「キィリク?」
 名を呼ばれた獣人キィリクは強面に実直な表情を乗せた。
「得物は武人の魂。それを手放した」
「実戦なら、最後に立っていたのはキィリクだ」
 過去同じ教室で学び、今までにもキィリクの任務が空いていれば仕合を繰り返し、お互いの手の内を知り尽くした二人だ。かつての教室長の讃辞に、イクスは誇らしさよりむしろ自分の未熟さを恥じた。
 剣技はイクスが一瞬キィリクを上回っていた。しかしキィリクが叩き付けた気の力で、イクスの全身は痺れにも似た感覚に侵され、その剣先は胸元で押し留められてしまったのだ。
 実戦ならば、容易く命を取られていたところだ。
「俺の気、弱かったかな」
 己も気を放ったのに及ばなかったのはその為かと、イクスはタオルに顔を埋める。
 と言ってもこれは気落ちしたのではなく、今の仕合の分析に入ったのだ。但しイクスの脳裏で行われるシミュレーションでは、対峙する相手が無意識の内に切り替わっている筈だ。
 キィリクはまた先の言葉を、イクスが自分とではなく誰と比較しているのかを判っているだけに、その肩を人の物より二回り以上は大きな手で叩いてやるだけで、黙して語らなかった。
 朝の競技室の一こまが、今日も終わろうとしている。
 ──唐突に。
 イクスは思索の糸を振り切って、キィリクに今日の手合わせの謝辞を述べるとあたふたと競技室を出た。
 眠りこけていたひなを、更衣室で置き去りにしたのを思い出したのだ。
 案の定、起き出したひなに熾烈なくちばし攻撃を喰らわされ、制服のポケットは縁取りの糸が解れてしまっていた。

 ひながポケットに収容されたまま、一時間目の講義は始まった。教室の扉を開け、相変わらず細い三つ編みを垂らしたリカルド教師が現れる。
「おはよ、諸君。今日は動詞が主語によって変わる、と言うパターンの言語で幾つか実践をする」
 言語の実践と言われたのを合図に、皆各々のシリアルプレートを外したり、操作し出す。中に込められた言語システム分析機能を停止するためだ。イクスもまた、襟元のバッチ型のそれを取り外して机の上に置く。
 と、横から白い手が伸びてきて、それを取り上げた。
「エファ」
 イクスの院生活において大切な──無論本人との照合が付かなければ持っていても機能を働かせない程度にはプロテクトされているのだが──IDを細い指先で回しながら、彼女は少し面白そうに笑う。
「Ho litigato con Roin.」
「なんだって? お、りてがーこん?」
 聞き取れた最後の音から、ロアンの事を言っているらしいとは思うのだが、如何せんイクスはエファの母国言語が苦手だ。
「どうした、イクス。またエファにからかわれてるのか?」
 こちらは分かりやすい言葉を選んで、リカルド教師が口を挟んだ。
「そういうわけじゃ……」
「鍛えてあげてるんです」
 否定しようとしたところで、残りの言葉をエファに浚われる。そうだったのだろうか、とイクスは苦笑して彼女を見やると、華のある表情で有耶無耶にされた。
「ふ〜ん、E percheで、どうしてだ?」
 言葉は割って入ったエファの方に向けられる。
Perche lui arriva tardi彼、待ち合わせに遅れたから
 珍しいこともあるものだと、最初はそれほど気にならなかったのだが。考え直してみれば、例え数分の遅刻でも自分を軽視されているような気がして。と本気なのか冗談なのか見分けのつかない表情を浮かべた。
Se ti arrabbi cosi,それなら ti conviene trovare un regazzo piu puntualeもっと真面目な奴と付き合えよ
E dove lo trovoそんな人、何処にいるんです?」
 ばつが悪そうにリカルド教師が腕を宙に投げ出す。文字通りお手上げと言う形だ。二人のやりとりを聞き取れた幾人かは、その様子に笑っている。
 リカルドも、時間を守らない点では人のことが言えないのだ。この授業とて、実は十分ほど遅く始められている。
 それでなくともエファに言い勝つのが難しいのだ。
「あ〜とりあえず私語は慎め」
「はい。先生」
 艶やかな笑みが一層濃くなった。

 リカルド教師の言語学は、兎に角実践──聞き話し、身に付けることを重視する。しかし全く未知の言語を突然聞き取るなど不可能だ。その為の取っ掛かりとして、文法やその他言葉の約束事が存在する。
 自分の知っている言語が多ければ、それらの中から相手の話している言葉に似たものを見出すことが出来る。
 必要なのは、完全に理解することではないとリカルドは思う。数多の世界の中には、それこそ本人以外には判別不能な言語がある。問題は、相手の伝えたい気持ち──所謂ニュアンスと言うものを汲み取れることだ。
 ただ相手の言いたい言葉を知る為ならば、件の言語システム分析機能で充分だ。
 それでも院で言語学を教えるのは、そう言った情報収集だとかを離れた時点での相互理解のためでもある。言葉は文化の一部を端的に表す。そしてまた幾多の慰めよりも、ほんの一言、母国の響きで言われる「大丈夫だ」の方が落ち着くのも事実。
 そう言った背景があるから、イクスもまた言語の講義には真摯に応対している。真面目に受けるものだから、自分の母国語では余り使わない音も丁寧に発音しなければいけなかったり、意外と疲れる。
 だから突如その音が聞こえた時、はて何事かと辺りを見回してしまったのは悪意があった訳でない。それから周囲の視線を己が集めて──否、己の胸元に集中していることに気付き、はっと思い出す。
 未だ胸ポケットで眠っていたひなが、ひょっこりと顔を出していた。
 それと暫し対面を果たしてから、再び教室内に視線を巡らす。笑っている者も、顰め面をしている者もいる。
 ぴぃっ。一際高く鳴いたひなは、どこか誇らしそうに胸を張った。
「あ〜取り敢えずイクス、後で罰」
「……はい」
 話し出す前に何かよく分からない言葉をあげるのは、この教師の癖であるらしい。そう思いつつ、イクスは肯いた。

「で、どうしたんだこれは」
 授業後、イクスはリカルド教師の研究棟まで大量の荷物を運ばされた。これも授業運営妨害の罰、と言われれば素直に従ってしまうのが彼らしい。
 朝見つけた孵ったばかりのひなだと説明すると、レイヴの師匠とも言える程生物好きのリカルドは好奇心を刺激されたらしい。鳴き喚くひなをひっくり返したりあれやこれやとするので、イクスはひなを取り返して撫で付けてやった。
 気持ち良いのか、喉を震わせてイクスの手の平に頬を寄せる。
「そうだ、こいつ餌を食べないんです。どうしたらいいでしょう」
 懸念を伝えると、なんだ、とリカルド教師は辺りの檻を開けて様子を見たりしながら──何やら低い唸り声や、隙間から見える牙などに関しては無頓着なようで、イクスは何時もこの部屋には心中穏やかでいられないのだが──事もなく答えてくれる。
「サケの卵が孵った時、稚魚の腹に卵黄があるだろ。餌を取らなくても栄養補給が出来るようにな。雛も大体そうだ」
 孵化した雛は自分の腹部に貯め込まれている卵黄を消化し、エネルギー補給をしながら器官の発達を待つのだ。だから餌を食べるのは孵化後二三日経ってからだと言う。
「未だ餌なんぞ心配しなくてもいい」
 早すぎるぞと笑われて、イクスはほっと安心した。それなら、取り敢えず餌を心配する必要はない。
「あ〜それとな、お前この後こいつをどうする?」
「どうと言われても」
 答えようがない。そもそもこいつを冷蔵庫に入れたのは誰なのか。それに自分も愛着が湧いているのだが、自然に帰せと言うことだろうか。
 だがリカルド教師はそれも未だ早い話だよと笑った。
「この後の時間、そいつを連れてると面倒だろ。後で引き取りにくるならここの鳥籠で待たせといてもいいぞ。この後はジンジャーが面倒見るだろうしな」
 動物の扱いが巧い後輩の名を持ち出され、イクスはそれなら、と思う。
 実はこの後カイ教師の講義と、武の実地講義がある。ひなを連れて受ける訳にもいくまい。連れて行ったとしても、構ってやれないのだし。
 それにしても本人がいないところで話を決めて良い物なのか。
「ジンジャーは慣れてるから、一匹二匹増えたって平気だ。気にするな」
 それは事実だろう──それに授業が終われば迎えに来るつもりなのだし。
「それじゃ、お願いします」
「ああ」
 何処か嬉しそうに受け取るリカルド教師に、まさか実験に使われるわけではないだろうな、と一抹の不安が過ぎる。ひながイクスから引き離され不安そうな顔をしたのも気になった。
 と、そこに院内放送が流れた。
『教室長イグゼフォム・カルバニル君。至急教員棟までお願いします』
 呼ばれた自分の名に、イクスは顔を上げる。リカルド教師の暖かい色の瞳とかち合った。
「おう、行って来い」
 心配性だなと笑われて、イクスは一度丁寧にお辞儀をすると部屋を辞した。扉を閉めたすぐ後で、先程話にのぼったジンジャーが反対方向からやって来たのには気付かない。
 それだから当然。
「リカルド教師……これ」
「あ〜……」
 研究棟の中で一つ鍵の開いた小さな檻。それを見付けたジンジャーの指摘にリカルドが笑顔を張り付かせたまま固まった事など、知るべくもなかった。