イクスのとある一日 3

 呼び出されたそこで、イクスは数枚の束ねられた書類を受け取った。
「なんですか?」
 それを渡した担任ルクティ教師は、取り敢えず読むようにと視線で促す。彼の人が無口なのは今に始まったことではないので、イクスは言われた通り視線を落とす。
 直ぐに視界に飛び込んできたのは、転移禁止の太字。
 もとより院内で空間制御の力を行使するのは、院全体のシステムに影響を及ぼす可能性があるため──フォウルの説明によると電車の中でケータイデンワは電源を切るだろ、と言うことらしいが──禁止されている。
 それなのに、改めての告知とは何事なのか。
「なになに? 現在時間軸が極めて不安定な磁場にあるため、転移後の無事を保証できな……」
 要するに、転移後その空間に同じ世界が存在しているとは限らない、それほど現在の空間自体が不安定だと言うことだろう。いや、せめて何処かの世界に着けばいい。もしも次元の狭間を永遠に彷徨うことになれば……ぞっとするな、とイクスは思う。
 後は何やら細かい数式や文字列が並んでいる。しかし問題はこの告知の発行日時だった。
「ルクティ教師──これ、昨日の発行のようですが」
「忘れたんです」
 今朝には伝達されるべきだった情報を、忘れたの一言で片付けられるのはルクティ教師くらいだろう。彼が公安だった頃には、恐らく主から同じ仕打ちを受けていたのではないか、と思われる。
 何にせよ、重要な伝達が遅れたことには間違いない。
 これから教室の生徒たちを探して伝えないと、と思いイクスは息を吐いた。ちなみにルクティ教師は悪いことをしたと言う程度に思っていても、事の重大さには気付いていないようだ。
「分かりました。責任持って伝達します」
「あと……」
 何か思い出そうとする表情で、ルクティ教師は己の教室長を呼び止めた。
「確か、ベーギュウム教師の授業が時間帯変更で、それに併せて今日の午後は色々と変動だと思います」
 いつもは表情の読めない教師だったが、今のそれは、必要な情報だったか? と聞きたそうな眼差しなのが分かって、イクスは今日何度目かの溜息を吐いた。
「……凄く大事です」

「お帰りなさい」
 少年の微笑みに迎えられ、イクスはやっと笑顔を返した。
 何時もの席で、同じ教室の面々が席に着いている。今日はどういう風の吹き回しかロアンとレイヴもいるようだった。
「遅かったじゃん、教室長」
 そう揶揄する口を叩きながら、浅煎りの所謂アメリカンコーヒーを楽しんでいるところを見ると、ロアンは早々に食事を済ませてしまったらしい。少し酸味のあるそれに、決まって砂糖を一杯。それがロアンの昼食後のスタイルだ。
 察するに、イクスの呼び出しから伝達事項があると推測して、顔を出したのだろう。昼は別の場所で済ませてきたのかもしれない。
 リートがイクスの分の食事を取ってくると言い残して席を立つと、漸く膝上の本に視線を落としていた双子の片割れが顔を上げた。少し傾いた眼鏡を押さえる指先が細い。
「……それか?」
 問われ、イクスはその書面を二人が読める向きで置いてやった。
「ふぅん。ま、危ないっちゃ危ない話だけどな」
 一瞥してもう興味が薄れたのか、ロアンは余り真剣味のない表情で椅子の背もたれに寄り掛かった。レイヴは逆に熱心な様子で詳細なデータまで目を通している。規則を破って転移すること多数のロアンが取り合わないのは、理に適っていないのではないだろうか。
 少し厳重に注意しようかと思ったところで、リートが戻ってくる。
「はい、イクスさん召し上がれ」
「ありがとう」
 色々とあって忘れていたが、そう言えば自分は朝も軽く終えてしまって空腹を感じていなくなかった。イクスは有難く、運ばれてきたトレーを受け取った。
 大皿のドリアに、このテラスの定番メニューである特製ソーセージ。ピンク色のボール型具が浮かんだ白いスープ。小皿には葡萄といちじくの実に、見たことがない南国系の果物らしいものが盛り付けられている。
 味も歯ごたえも申し分ないそれらが、イクスの口の中でほんわりと広がる。
 リートは、自分の為に持ってきたビルトン茶と言う透き通った赤の食後茶にたらりと蜜を落とした。
「あら、イクスこれからお昼?」
 通り掛かったリカとエファに声を掛けられる。
「良かったら、食べて」
 作り過ぎちゃって、勿体ないから。そう言ってリカは肩に掛けた皮の鞄から包みを取り出した。
「勿論、有り難く頂くよ」
「──なんでロアンが応えてるのよ」
 女性からの頂き物を断るわけがない年下の恋人の頭を、エファが呆れた表情で叩いた。

 そんな昼休みをいつもよりゆっくりと終えると、次の授業は時間変動によって“武”の実技であった。当然、朝既に訪れている競技室の一つを使う。
 イクスは着替えの為にも、早めに教室のメンバーと別れて足を競技室へ向けることにした。途中の研究棟までレイヴが一緒だ。
 リートと同じくらい、もしくはそれ以上におっとりしていると思われがちなイクスだが、その立ち振る舞いは流石にかの少年とは違い、機敏な動きをしている。やや大股に真っ直ぐ歩くのが特徴と言えば特徴だ。
 だが、走るのは遅いが歩くのは速めなレイヴと逆に、全力で疾走するのは速くても歩くペースは割と遅いイクスなので、身長差があってもお互いの進むテンポが合う。
「告知の調査内容、どうだった?」
「大体三秒で世界の波を潜っていると思えばいい。ドームがなければ俺達は消し飛んでいるな」
 たいした言葉は交わさない。
 それでもこういう時に親しみを感じるのは、何故だろう。
 そう思って傍らのレイヴの横顔に振り返ったイクスは、彼の翠眼が細められたのを見て直ぐに前方へ視界を戻した。
 思わず、名前が零れる。
「──ラメセス」
 研究棟に入っていくその後ろ姿は、確かに金と黒の一風変わった色合いの頭をしていた。彼にも告知を伝えねばならないのだが。
 研究棟で行う講義を、彼は取っていただろうか?
 いや、ない。とイクスは直ぐに否定できた。教室長という仕事柄、所属学生の時間割は頭の中に入っている。
「例の知らせならば、伝えておくか?」
 イクスは競技室に行かねばならないことだし。
 同じ棟にいるのならば、と気の利く後輩が任されようかと言うのに、イクスは釈然としない気持ちで頷く。いつもは草蔭まで探しても見つからない彼が、一体どういう風の吹き回しで用事もあるはずない研究棟に訪れたのか。その方が気になった。
 そこでイクスも常ならば自身で追い掛けて聞くところだったが、何故か今日は一歩引いてしまった。
 それが何なのか、彼にはまだ分かる由もなかった。

 心の奥に妙なわだかまりを研究棟に残したまま、イクスは制服をロッカーに仕舞うと軽装の防具を身に着けた。
 朝一汗掻いているのも事実だが、一旦食事を挟んだ後だけにより念を入れて準備運動をしておくべきだろう。そう思いつつ踏み入れた競技室は、一部屋が広い。当然そうでなければ支障が出る為だが、それほど多くない人数でいると、先ず広さに圧倒される。
 隣の教室でも実技系の講義があるようだが、その物理的な遠さと展開されている結界の為に、何の授業なのか分からなかった。
「お、イクス」
 後ろから声を掛けられた。
 明るい茶色の髪に良く合った明るい声音は、カイ教室のシィン・アブロードだ。未だ初級生の彼はこの講義でないから、恐らく隣の教室を使っているのだろう。
「ベーギュウム教師の講義だろ? 時間変更の。理由知ってるか?」
「いや……カイ教師がどうかしたのか?」
 そう言えば、彼はカイ教師の熱烈な崇拝者だった。だからその辺りの話かと検討を付けて返してみる。
 首を左右に振ったシィンは落ち着きなく中を覗き込んだ。──上級試験に受からない理由の一つが分かるような気もする。未だいらしてない、等と言うのを聞き咎めて、イクスはシィンの名を呼んだ。
 直ぐに、愛嬌のある笑顔がイクスに向いた。
 いや、どちらかと言うと今日は興奮しているようだ。
「いいな〜。俺もこの講義取りたかった」
 脈絡がない。これではカイ教師も苦労しているはずだ。第一この講義は上級生限定の選択講義なのだ。それだけに人数も少ない。
 シィンは悪い性格でこそないのだが、真面目すぎて常に一つのことしか考えられないと言う愚直さがある。
 だが言われた内容に、イクスも驚いた。
「サイファ様が都合が合うから、見にいらっしゃるって」
 さすが、院生候補だらけの上級クラスだな。
 そう羨望と悔しさを滲ませた彼は、そう言えばサイファ元教師の熱烈な崇拝者でもあったのだ。否、フォウルを除けば、サイファほど敬愛される人もいないだろう。
 イクスにしても、騎士として目指す人物には挙げたい相手だ。
「早耳だな」
 ふいに背後を取られた二人は、言葉を詰まらせた。
 キハラス・ベーギュウム教師はいつもの通り、長さの違う二本の太刀を帯剣して現れた。その後ろに、話題に出していたサイファ本人がいる。
 サイファは一度シィンを見遣り、微かに笑ってみせた。
「自分の授業の準備はしなくていいのか?」
「します!」
 純情もここまで来れば佳いものだ。と言う感想をイクスたちが抱くほど素早く、シィンは敬礼すると自分の教室へ走りと歩きの中間くらいの速度で向かう。
 ベーギュウム教師の方がそれに吹き出して、イクスの肩を叩いた。
「まさかサイファが、自分の都合でお前達のリズムを狂わせるわけないだろう」
「はい」
 疑う余地もないほど、この人は潔白なのだ。
 そう思えばこそ不思議なこの時間変動は一体──と、イクスはベーギュウム教師が不思議と上機嫌であることに気付いた。
「フォウルも来るぞ」
「はい──ってええっ?」
 それこそ、愕然と言う表現にぴったりだった。
 しかしその言葉が嘘や、あまつさえ幻聴ではなかった証拠が直ぐに現れた。
「来るじゃなくて来てるに訂正しろよ、キー」
 不遜な表情で、他の者より少し低い位置から言い放たれた言葉は、紛れもなくフォウルのものだった。
 さすが上級クラスって感じだな、と何処で聞いていたのかシィンの口調を真似たそのからかいには最早返す言葉がない。
 確かにベーギュウム教師はあのアーデリカ達の教室を見事に纏めているだけあって、洒落や冗談の通じる人だ。だがフォウルの遊びに付き合うほどだとは知らなかった。
 今日はシゴくぞ、と何だか気合いの入っているフォウルを見つめて、イクスは力無く笑うしかなかった。