イクスのとある一日 4

 散々に「可愛がられ」たイクスは、戦術理論の講義の席に着くなり机に突っ伏した。
 どちらかと言えば体力に自信があるつもりだったが、当代の院最高峰の騎士と渡り合える力は未だ付いていなかったらしい。
「大丈夫?」
 取り敢えず突っつきながら声をかけてくれたアーデリカに返事を返し、気合いを入れ直す。瞬間、頭の中が揺さぶられたようにふらついたが、恐らく疲れからだろう。
 直ぐにカイ教師が現れ、イクスは気を引き締めた。
「今日は変動があって迷惑した者も多いだろう。が、この講義はいつも通り行う。やる気のない者は今の内に去れ」
 お決まりの台詞に、教室を埋める学生たちは息を吐く。
「さて、今回は次の通りの状況下にあると仮定する」
 展開されたモニターに、自軍の戦力と敵軍の推定戦力とが提示される。続いて周辺地形がサブウィンドウで開かれた。
 戦術の前には必ず戦略がある。
 基本的に戦略とは、まず実際に戦い始める前に行われているものだ。その段階で、理想的には敵軍を倍は上回る戦力を蓄えておかねばならない。だが今回の条件では、すでに交戦中の上、自軍は敵戦力のおよそ五分の一。加えて備蓄も底を尽いている。
 酷く厳しい状況だと言えた。
 データに目を通した段階で早くも根を上げている者もいる。
「自軍敵軍共に武将データを送る。これは過去数度の戦で採取された、極めて信頼性の高いデータとする」
 次々と送られてくるデータに目を通す。
 ふいにその視界がぼやけ、イクスは慌てて目をきつく瞑って意識を取り戻した。自分でも驚くほど余程の疲れなのか、眠気が襲ったのだ。
 講義中に眠るなどと言う行為は、勿論したことがない。ましてやカイ教師の前でそんな失態を見せるわけにいかなかった。
 イクスは気を取り直してもう一度データを見直した。
 何処かの世界の史実から持ってこられたデータであるだろう。恐らくこの軍は敗戦したのだろうな、と思わざるを得ない。
「現段階で私から提出できる情報は以上だ。では、諸君の思考に期待する」
 カイ教師のよく通る声すら、少し遠い。
 戦略を考えるならば……だ、とイクスはどういう訳かともすれば遠退きがちな意識を繋ぎ止める為に考えた。戦術レベルでこの戦いに無理して勝つ必要はないような気がする。なんとか突破口を開き、主君を落ち延びさせればいいのだ。
 戦略と戦術は全く性質の違うものだ。と彼らは叩き込まれている。
 戦略とは全体的な目で考えた戦闘の準備、計画、運用の方法であるし、戦術は個々の具体的な衝突における戦い方だ。重要なのは、戦術は戦略に従って用いられ、場当たりの戦闘で戦術を駆使し勝ったところで、戦略という大きな流れで勝利を掴める訳でないという事実だ。
 しかし戦略的な目で見ても──と改めて地形を見直す。
 この地点を固守することで、最終的に敵軍の首都へ攻め込む為の次の攻略拠点が見えてくるのだ。
 果たしてどちらの道が自分がとるべき戦略なのか、若しくは全く別の案を出すべきか。
 皆が頭をひねり、また質問に立っている教室に。
 突然、扉の開く音がした。
 大気が硬直する。
「六分の遅刻だ。授業後に教員棟へ来ること」
 変わらず静けさを湛えた教師の言葉で、一瞬乱入者に意識を奪われていた学生たちは気を取り戻した。一秒も惜しいように慌ててモニタに向かう。
 イクスもそれに倣おうとして、しかしまだ扉のところに立ったままの彼をまた見やった。
 何の気紛れか、カイ教師の講義に現れたのはラメセス・シュリーヴィジャヤだ。イクスとは大分離れた後方の席に着くと、大して面白くもなさそうな表情でモニタに一瞥を与えた。
 ──唐突に、その紅眼がイクスを貫く。初めからイクスがそこにいると知っていた様な動きでされたその視線に、釘付けられる。
 視線は固定したまま、ラメセスが何かを告げるように口を動かした。
「『莫迦』?」
「イグゼフォム・カルバニル、やる気がないなら今からでも退出しろ」
 ……やはりカイ教師は、一瞬とはいえ挟まれていた授業中断に苛ついていたらしい。
 謝罪の後真剣にモニタに向かったイクスは、しかしラメセスの存在と不定期に襲いかかる眠気とで苦しい戦いを強いられた。

「思いも寄らない戦術立てたな、お前〜」
「論破されちゃったんだから、やり直しよ」
 この講義は個人作業だけでなく、途中から作戦が立てられた者から論を展開、お互いの意見を交換し、甘いところを突き合い切磋琢磨していく。カイ教師が退出した後の教室では、未だ先程の講義や互いが立てた戦略戦術について語り合う学生の姿が多く見られた。
 しかし早くも退出したのか、荷をまとめて立ち上がったイクスの視界にラメセスは見受けられない。
「今日は発言なかったわね。どんなの立ててた?」
 アーデリカに問われ、苦笑する。結局戦略レベルでの立案も及ばなかったのだ。
 応えるよりも先に一列後ろから声がかかり、アーデリカはそちらに顔を巡らせた。今日の立案はアーデリカが最終的にいい働きをしていた。
 自分は理論に向いていないな、と思う。
 どちらかと言えば、この講義で前半に行われる机上の論を考える理論の講義より、後半の実際の指揮を執る戦術シミュレーション部分の方が──そしてそれよりも、実戦の方が。要するに指揮官向きでないのだ。
 もっとも苦手だからと言っても必要とされる局面が有り得る訳で、院生を目指す以上は避けて通れない講義の一つだ。
「騎士は戦略なんて分からなくても苦労しないさ」
 主君の派遣命令に従って、戦術レベルで勝ってくればいいんだからな。
 ふいに見透かされたような声がかかり、イクスは息を詰まらせた。
「不愉快なんだよな。こういうの」
 物騒な言葉が、男物にしては綺麗に形作られた口唇から吐き出される。
 いつも、そして今日の講義でも積極的に討論に参加していた筈のロアンは、そう呟いて、まだ点いたままの隣席のモニタを指で弾いた。
 ある程度大きなまとまった単位の命がモニタ上では豆粒のように表示され、現実が単純な数字データに変換されてしまう。こちらの指示一つで動き出し、簡単に消えてしまう。
 これが実際の戦争で起こることだ。人の命が単位で考えられ、簡単に切り捨てられる。
「……なんて、囮作戦出したオレが思ってるわけじゃないだろ」
 神妙な顔をして聞いていたイクスの前でふいに吹き出し、ロアンは別の学生の名を二、三挙げた。
 だがイクスとしては、笑い飛ばす気にもなれない。
 その気持ちが伝わったのか、ロアンはからりと乾いた笑いを止めた。
「ま、そう思いつつ頑張らないといけない奴もいるし、これが現実だけどさ」
 そう呟いたロアンにとって、現実とはなんなのか。
 ただ、イクスは戦略を主君に任せてそれで良しとするのだけでは駄目だと、そう思えばこそ。
「俺は、苦労しようと思うよ」
 本来不要なものだと言われようが、それで人の手助けが出来るなら取り組もうと思う。

 気が付いた時には苦労を背負い込まされていた。
 それを奇怪しい、と思いつつも大人しくロアンの提出書類を運んでやるのがイクスのイクスたる辺りでもある。どちらにせよルクティ教師と今日の連絡遅れに関して等話し合おうかと思っていたので、教員棟へ赴くついで、と言えばその通りだ。
 何故か詐欺を働かれた気がするのは、今日一日も充分見舞われたいわゆる不幸と言うものの為せる被害妄想だろう。
 とは言えイクスは、自分を殊更不幸だとは思っていない。確かに普通より少し悪いことが重なるようだが、それは自分の注意力緩慢だったり力不足に所以するのだろう、と。
 皆が口を合わせて言う不幸の星の下、だとか不幸が行列して待っているだとか、不幸のバーゲンセールに行って来たとか、そう言った言い様をされるのは不本意だ。
 そうだとしても、自分に出来るのは日々を真面目に過ごしていくことしかないのだから。
 入り口に掛けられた在室表では、教員棟内にルクティ教師がいる様子はなかった。少なくとも各教師用に設けられている個室には、いない。人付き合いが苦手なあの教師は、大部屋──いわゆる教員室にあたるあの部屋では居心地が悪いのだと、大抵個室にいた。もっとも、教員棟に居てくれるようになっただけで進歩だが。
 かの教師は気配りが細かそうに見えて、意外と大雑把であるから表示を忘れたのかもしれない。思って、イクスは大部屋に向かった。
「失礼します。ルクティ教師はいらっしゃいますか」
 断りの言葉と同時に、扉を開ける。
「ん……イクスか。ルクティならフォウルに連れてかれたよ」
 振り向いたのがあまり教員棟では見掛けないシュウ・スクード教師で、少し驚かされる。劉教師が頷いている後ろから、カイ教師が現れた。
「イグゼフォム、お前ここまで確認に来ずとも教室長権限のIDがあるだろう」
 姿を見るなりそう言われる。間違ってはいないのだが、どうやらイクスが教員棟を訪れるのはルクティ教師への用事、と認識しているようだ。イクスはロアンからの預かり物を提出すると──カイ教師に何も言われなかったのは、彼が他の学生の質問に答えていた為だ──室内の教師へ謝辞を述べて退出した。
 確かにイクスのIDプレートには教室長として、教室所属の学生と教師の動向を探ることが出来る機能が付加されている筈だが、使ったことがない。
 使わなくとも仕事は出来たし、人の居場所をあれこれと探るのはあまり気持ちのいい事でない。
 フォウルに連れて行かれたと言うことは、迷いの森か院外か。それだけでも絞れたのだから、満足としよう。
 そう極力明るく捉えて教員棟から出たところで、イクスはふいに今までで一番強烈な眠気に襲われた。脳が霧がかったように鈍重に感じる。意志に関係なく瞼が閉じた。
「あ……れ」
 せめて邪魔にならないところ。
 沈みゆく意識の中で脳がそう指令を出したものの、それを聞き入れる前に膝が崩れ、イクスは壁に手を付いた。
 意識の奥底から心地よい幻の歌声が聞こえる。

 それを知覚した途端、今度は現実に激しく吹き付けた戦気で覚醒した。

「らめせす?」
 意識を失ったのはほんの数瞬だったのだが、寝惚けているような声が出た。いや、状況を正確に把握するのに、少し脳が遅れてしまったからだ。
 今日一日の中では一番近距離にラメセスが、いる。否、それ自体はいいのだが、彼の手にしているものが確かに剣であることに、イクスは疑問を感じた。
 端から見ると。
 倒れ込んだイクスに、ラメセスが、斬り掛かる一歩手前、だと思うのは気のせいだろうか。
「……斬り損なった」
「え?」
 物騒な台詞をラメセスの口が紡いだ。大きな声ではなかったのに聞こえたのは、辺りが静かだった為だろう。はっきりと聞こえたそれに、しかし出来の悪い冗談のような気もして思わず聞き返していた。
 瞬時に、イクスの反射神経を越える速さで蹴りがいれられる。
 吹き飛ばされる僅かな合間にかすかに見えたのは、苛立ったラメセスの表情で。まさか八つ当たりではないだろうなと思い至った時には姿が消えていた。
 ……やっぱり自分は「少し」より、もうちょっとばかり不幸かもしれない。
 イクスは沈みかけた気持ちを高めようと、リカルド教師の研究棟に預けたままだったひなを迎えに行くことにした。