イクスのとある一日 5

 自分の選んだ進行ルートが、結果的に良い選択だったのはすぐ判明した。
 リカルド教師の研究室の前でルクティ教師に会うこととなったからだ。フォウルに頼まれてリカルド教師へ資料を借りに来ていたらしい。
 一応明日からの伝達確認をお願いしてから、イクスはひなの待つ研究室へ赴いた。
 一瞬とはいえ眠ってしまった為か、眉間の辺りに疲れを感じる。今日はひなのこともあるし、明日の講義の予習が終われば早々に床につこうと決心する。
「よし、次。耐水性チェック」
 何か実験をしているのか、リカルド教師の指示が聞こえた。
 邪魔をしないように軽くノックだけして扉を開ける。何気なく巡らせた視線の先で、水の満たされた大きな水槽を前にリカルド教師と何人かの学生が作業をしているのが見えた。
 一瞬の、その違和感。
「──リカルド教師!」
「う、イクス……」
 一跳びに近付いたところではっきりと確認し直す。リカルド教師が提げた吊り紐の付いた籠の中に納まっているのは、確かにイクスが預けたひなだった。
 既に色々と調査をされたのだろう、ひなが酷く憤慨した様子で籠を突つく度に、防護の術の効果か金色の魔法粉が舞った。
「どういう事なんでしょうか」
 普段は人当たりが優しいイクスだが、それなりの意志を持って真っ直ぐに問い質すと、その長身も相まって予想以上の威圧感を与えられるらしい。学生たちがさっと一斉にリカルド教師の周辺から退散したのは、さすが危機管理が出来ていると評していいところだろうか。
 リカルド教師は何かあやふやに言葉を紡ごうとして失敗している。言語学の代表教師としては失態だろう。
 イクスは一歩間合いを詰めた。
「どういう事ですか?」
「……すまん」
 辺りに置かれたノートから、どうやらかなり量の調査を採らされたらしい。曰く、雄雌判別チェックから耐温度チェックなるいかがわしいものまで、だ。
 だが恐らく、否、確実にリカルド教師には悪気がない。
 それが分かるだけに、イクスはこれ以上言い募るのは気が進まなかった。もう済んでしまった事であるし、と嘆息してただ、籠の蓋を開けた。
 ぶすり。
 それは不意打ちで太い釘を打たれたような痛みだった。その小さな体でよくも、と思うほど激しい一撃だ。
 ひなに差し出した手を強かに突つかれたイクスは、声もなく踞るしかなかった。大体、ひなに突つかれる理由が分からない。──リカルド教師ならばともかく。
 周囲から向けられる同情の眼差しも痛い。
 ひなはその身に生えた小さな翼を広げては、忙しなく羽ばたかせた。勿論それで飛ぼうというのではない。イクスを威嚇しているのだ。
 この研究室に預けるまでは仲良くやっていた筈なのに、とイクスは痛みを堪えながら困惑してリカルド教師を見遣った。
「性格:やや凶暴、と……」
 真面目にメモをとっている。
 その前に何とか説明するなり助けて欲しいものだと思うが、そう言おうとして、しかしこれがリカルド教師の生物にかける情熱なのかもしれないと、少し遠慮する。
 ひなはそんな人の佳いイクスの手を再度突ついた。
「──っ──」
「う〜ん。やっぱりこれは霊鳥やら妖鳥の一種だろうな」
 リカルド教師の分析と解説がとうとうと始まる中、イクスは一人涙した。
 勿論、眠気などとうの昔に吹き飛んでいた。

 散々に突つきまわしたことで満足したのか、ひなは暫くすると落ち着いた。気付けば夕刻になっていた為、最終的にひなをどうするのかは決めないまま、イクスも部屋へ連れ帰った。
 リカルド教師の好意で籠を譲られたが、その時にやけにしみじみと鍵は閉めるように言われたのが印象的だった。そう言えば──話の途中でやって来たジンジャーの、何やら沈痛そうな表情も気になった。ひょっとして、ひなは研究室で迷惑をかけたのだろうか。
「な、お前はどうする? 里親を探すか?」
 懐いていたと思ったひなに攻撃され、少し落ち込んだイクスはひなのふわりとした頭を撫でながらそう問うた。
 相変わらず気持ちよさそうな表情をしてくれるが、果たして自分はどう思われているのだろうか。故国で動物との付き合いが余りなかったイクスには、どう捉えて良いのか分からない。
 少なくとも自分の部屋で孵った以上、それなりの責任をとりたいのだが。
「イクスさ〜ん、お夕飯食べに行きませんか?」
 とんとん、と扉を叩く音と共に後輩の声が聞こえた。
 それを迎え入れようと立ち上がり、はたとひなをどうしたものか考える。いい加減ポケットの中もあるまい。流石に窮屈だろうから止めておくよう言われたばかりだ。
 かといって夕飯も部屋で済ますには食材が足り苦しかったし、折角誘われているものを断る意志は持ち合わせていない。
「お前どうする?」
 ちょっと待っていて欲しいと部屋の外に声を掛けてから、イクスは机上のひなを見やった。連れて行くにも、しかし籠に入れるという発想がないものだから考えが纏まらない。
 困ったままのイクスを眺めているのにも飽きたのか、ひなが袖口を軽く啄んだ。それから上目遣いにイクスを見やってはまた袖を引く。
 その動作から思い付き、何気なく左肩を机に寄せる。
「うわっ」
 がぶりと銜えた耳を引っ張られ、イクスは額を机の角でぶつけた。そのままずり落ちた身体を支える為についた手が、机の上に乗せていた本を数冊落とした。その拍子にたった派手な音に、廊下から安否を気遣う声がする。
 大丈夫だと返さねば。そう思って痛みを堪えたイクスの頭上に、決して重くはないが確かな質量を伝える重みが乗った。
 鏡を覗き込んだイクスが見たのは、彼の頭に居場所を定め、それで満足したのか毛繕いを始めるひなの姿だった。
 果たしてこれでいいのか。
 甚だ疑問だったが、これで夕食に行って良いという許しがひなから出されたのは確かのようだった。

「可愛いですねぇ」
 にこにこと、それこそ見ている側の方が微笑ましい気持ちになってしまう笑みを浮かべて、リートはひなの目の前でフォークを回した。
 猫にする遊びとは違うんやで、とスィフィルの言葉が言い終わらないうちに、そのフォークを追ってひながばたばたと体を動かすのを見て吹き出す。
 二人はひなについて何も知らなかったようだ。
 となるとロアンが、ひなをイクスの部屋──厳密には冷蔵庫に入れた犯人の可能性が高いのだが。
「ご飯あげちゃダメですか?」
 顔が霞むほど、と言っては言い過ぎだが目に見えて湯気が立つリゾットを食べさせるつもりなのだろうか。
 さすがのひなも少し身を引いているようなのだが。
「ありえへん。そりゃないで、リートぉ」
 教室長もそれに頷くのを見て残念そうにリゾットを引っ込めたものの、果たしてリートが理由を分かっていたかは定かでない。好意は傷付けまいと、一応リカルド教師から教えられた未だひなに餌を与える必要はない話をしておく。
 あの説明が正しいのかは兎も角、実際ひなは食事を必要としていないようだった。目の前で行われる食事よりも、食堂の机に飾られた花を興味深そうに覗いている。
 それに視線を止めながら、スィフィルは先程から余り進んでいない食事を突っついた。大抵、自分の世界でも見たことがある物を選ぶのが賢いやり方なのだが、未だ見慣れぬものに好奇心旺盛な一年生はよく変わったものにも手を出してしまう。様子を見るに、今日は失敗のようだった。
 せめて一、二品は普段自分も食する品を取ればいいのに、全て目新しいもので纏めるからだ、とイクスはスィフィルのトレーを眺めた。
 メインディッシュである煮込みの肉らしいものは未だしも、何やら見慣れない物体が綺麗に透けて見えるゼリーのような物には一度口を付けただけで放っている。ただ、薄ピンク色をした飲み物だけは口に合うようで、二人にも奨めてきた。
「これは割といけるで」
 リートが一口試して、美味しいですねと相槌を打っている。
 続けてイクスの方に渡されたそれは、グラスからひんやりとした心地よい冷たさを掌に伝えた。
 好意に甘えて一口試させて貰う。顔に近付けたそれは、仄かにハーブ系の匂いがして。
「───っ!!」
 乱暴に置いたグラスから、飲み物がいくらか飛び散った。それに慌ててナプキンを放りながら、口元を手で押さえて立ち上がる。
 顔色を青くした教室長に、後輩たちのきょとんとした表情が向けられた。
「……しょっぱくないか?」
 正直そんなレベルではなく、思わず涙目になるほど濃度の濃い塩加減だったのだが、先に同じものを飲んだ二人はそんなことないですよと不思議がる。これで二人の味覚がイクスのものと大幅に違っているならば、まだ納得するのだが。
「どちらかと言うとさっぱりしてましたけど」
 イクスとは食生活が似ていたリートが特に不思議がる。
 ふいにスィフィルが声を上げた。
「待てや。僕甘いと思ったで?」
「じゃ、一口飲むことに違う味がするのかもしれませんね」
 そんな飲み物はないだろう。そう思ったイクスの前に、もう一度グラスが置かれる。
 試してみましょうよ、とにこやかに先程と同じ笑みを浮かべるリートに押し切られ、イクスは半信半疑で再度グラスに口を付けた。
 やはり塩辛い。
 今度は飲み込まずに──塩分の過剰摂取になりそうだった──、断って席を立つ。
 イクスの長身が急ぎ足で御手洗へ向かうのを見送ってから、スィフィルは中身が半分くらいに減ったグラスを前に、ふと呟いた。
「……シロップかき混ぜんかったからかも知れへんな」

 食事を終えた後になっても舌先がひりひりと焼けている気がして、イクスは顔を顰めた。
 寝息すら聞こえそうな様子で眠りこけているひなには、籠の中へ行ってもらった。ただし忠告に反するようだが鍵は掛けていない。
 ぽってりとした体に首を縮めて眠っているひなの姿に、頬が緩んだ。その瞬間再び舌に痛みが走ってイクスは筆を置いた。
 集中できない。
 否、集中力散漫の理由を食事のせいにするのは本意でなかった。この程度のことで集中力を切らす自分こそ情けないと思う。
 何をしているのかと言えば、明日の予習なのだが。
 今日は寝てしまおうか、と思ってイクスは今朝も正面衝突した時計に目をやった。その視界が歪む。
 ああ、今日はやけに疲れたし──でもシャワーを浴びてから──明日の用意がまだ──
 言葉だけがぐるぐると頭の中を巡って、イクスは何時の間にか視界が闇で閉ざされているのみ気付いた。とは言っても眼を閉じているだけだ。瞼を持ち上げればいい。
 脳はそう指令を出していた。だがそれが聞き入られることはなく、イクスは頭の奥の方を殴打されたような衝撃を感じて、混沌の中へと落ちていった。

 微かに、扉の開く物音が聞こえたような気がする。
 ……まさか。鍵は掛けた。
 それが、イクスが認知できた最後の意識だった。