イクスのとある一日 6
調べは四棹のシェルクトと二棹のコトロス、鈴を幾つも連ならせたエレクールと変わった長い縦笛とで紡がれていた。
煌びやかな礼装に身を包んだ人々と、それ以上に大勢の召使いたちが給仕をしたり、世話をしている中で、楽師たちは歓談の邪魔にならない落ち着いた曲を奏でる。
音は石の丸天井にあたって円やかな響きを震わせた。
──これは、夢だ。
そう思って、イクスは何処か遠い場所を眺めるようなあやふやさで辺りを一望した。
鮮やかな彩が埋め尽くした古城。香炉から立ち上る煙。自然が生み出した上質の岩を使った柱。織姫たちが編み上げた複雑なタペストリー。目の前を行き交う人々。
その視界の端々に鮮やかな蒼のグラデーションで纏められた鎧姿があるのに気付き、胸の奥が痛んだ。プジニアの騎士たちは皆、揃いの蒼鎧を着込む。
ここはプジニアの領土だった。
この地には古の聖王家の流れを汲む四つの王家が存在する。今宵のパーティではその一角であるプジニア王の求婚相手が──周知の事ではあるが──御披露目されるのだ。
招待客であっても奇怪ではない身のイクスが離れた場所から人々を観察できるのは、他ならぬ王の求婚相手がイクスの仕えるエアム・ベクの王女である為だった。
招待を断り、一人の護衛として列席した。
その姫君を、自分は何処に置いてきたのか。
麗しい、かの姫を?
直ぐには思い出せなかった。思い出そうとしても、脳の働きが悪くひどく時間がかかる。
ふと、腕にひやりとした手が添えられた。
「イクス」
鈴を振るような涼しい声が心地よく響いた。
職人が精魂込めて研磨した一対の宝石がイクスを覗き込んでいた。
日頃はふわりとした綿毛のような明るい茶色の髪が、今日は高く結い上げられて、かすかに甘い香りを漂わせた。
名工の手による陶器のような色合いの肌。その貴族らしい先細りした指が、白銀の礼服に身を固めたイクスの腕に絡められる。
「──イグゼフォム」
「はい、メルエディア様」
由緒を聞かされれば寝物語で三日はかかるのだろう古めかしい衣に、ほっそりとした身体が収められている。裾の長い生地に色鮮やかな刺繍が施された、重たげな衣装。それは彼女の何倍もの年をとっているのだろう。
その小さな肩が背負わねばならないのは、衣装の重さだけではない。
聖王家の末裔。エアム・ベクの王女。──プジニア王の妃。
「何時からこちらに?」
瞬間沈んだ気持ちを引き上げようと向けた問いは、笑顔に掻き消される。透かし模様の入った大降りの耳飾りが揺れて煌めいた。
「まあイクス、私達ずっと一緒にいたでしょう?」
「ずっと……?」
そうだったろうか。
「ねぇ、イクス」
見つめ合う瞳の最奥から、強烈な魅力を感じる。
これからあの物静かで穏やかなプジニア王と結ばれる彼女と、自分はずっと一緒にいた?
ああ、そう言われればそうだったような気がする。
姫付きの騎士として、いつもイクスは彼女の傍にいた。
「ええ、メルエディア様」
それが務めであり、彼が望んだことだから。
自らの手でプジニア王へ引き渡す事、けじめにも似たそれが。
吟遊詩人の手に掛かれば、それは悲恋の物語と唄われるのだろう。
むかしむかし、お花畑の美しい王国に小さなお姫様と騎士がおりました。
お姫様と騎士は大層仲が良く、二人は何時も一緒でした。
騎士はお姫様を守るために剣の腕を磨き、王国に並ぶ者がないほどの使い手になりました。
騎士の家は、望めば上姫さま達との婚姻を結べる程の家柄でしたので、人々は二人がいずれ結ばれるものと思っていました。
お姫様と騎士も、二人の想いを育んでいました。
しかしある日南国の王が軍隊を連れてやって来て、姫君を頂戴したいと頼みました。
お花畑の美しい王国の王様は戦がお嫌いでしたので、その頼みを聞き入れる事にして、順に姫君たちを呼びました。
一番上の姫が連れてこられると、王は「鼻が高すぎる娘は嫌だ」と言いました。
二番目の姫が連れてこられると、王は「黒い髪の娘は不吉で嫌だ」と言いました。
最後に末のお姫様が連れてこられると、王は「彼女を妃に迎えたい」と言いました。
お姫様と騎士は大層悲しみましたが、命令には逆らえませんでした。
小さなお姫様は涙ながらに船に乗り、南の国へと攫われて行きました。
しかし詩人たちが語らないであろう事を、イクスは知っている。
騎士と南の王が友であったこと。
お姫様は涙を流すような人ではなかったこと。
──騎士とお姫様は愛を育んでいなかったこと。
少なくとも、イクスはメルエディアが纏まりつつあった自分との縁談にも、プジニア王の求婚にも、動じたところを見たことがない。
彼女は成る程「小さな」姫であっても、古より続く一国の姫としての誇りを持っていた。
恐らく、プジニア王が末姫を望んだ際に驚かなかったのは、自分と姫、当事者二人だったようにも思う。
イクス本人は、予め準備が出来ていた。
プジニア王は、あの穏やかで軍を率いて乗り込むときですら征服者の虚勢を張ることなくエアム・ベクの王に頭を下げた彼が、真実メルエディアに恋しているのだと打ち明けたから。
カルバニル家は確かに名家だが、四つの聖王家に忠誠を誓う身であった。諦め、とはまた違った達観した受け入れの念があった。
否、幼少より仕えていたイクスには、もしもメルエディアに自由な選択権があったとしても自分を選ばない事が分かっていた。
実際メルエディアは求婚を受け入れた。
だから、別れに感傷的になっているのは自分だけ。
「もう私達、お別れね」
「……はい」
最初に、まだ「ちいひめ」と呼ばれていた彼女を見た時、清らかな花のようだと思った。それからなんと長い年月が過ぎたのだろう。
耳に心地よい声が、残酷な時の流れを宣言する。
「今宵は踊って頂けないのかしら」
ふと、小首を傾げたメルエディアに違和感があった。
自分の仕える姫は、こんな風に微笑む人だっただろうか。
どちらかと言えば淡々と状況を受け入れ、伏し目がちにひっそりと、そう、決して華やかとは言えないが慎ましく儚げで、それでいて強い芯を持つ花のような人でなかったか。
「イクス?」
応えのない彼を見やった、その顔は紛れもなく、イクスの敬愛する姫のもので。
彼女の騎士は形式だけでなく、心からの敬意を込めて白い手を取った。広間の中央へと滑る足取りで導く。
演奏がワルツに変わった。
重たげなドレスの裾が翻り、白銀の騎士と姫君が舞い始めると好奇の視線が集まった。
エアム・ベクの末姫と候の嫡男である騎士の話は、誰もが聞き知っている。気にしていないのはプジニア王くらいだろう。
彼は、イクスが誓った友情を信じているから。
軽やかにステップを踏みながら、メルエディアは何度かイクスの名を呼んだ。
何度か共に踊ったことはあるはずだが、今日は殊更、不思議に思うほど動きが合った。
最早未来に向かって重ねられることのない小さな手がイクスの手に収まり、片方の手に背中を預けている。
それがどこか不思議で、そう言えばこれは夢だったからだと思い出した。その一方で感じる、生々しい感触。それを押し込めて、リズムを合わせる。
そう言えば、自分はこの手を痛めたりしなかったか。
「……このまま逃げてしまえたらいいのに」
時が止まった。
そう言われることを、何処かで望んでいたのかもしれない。
胸元に押し付けられる小振りな頭。
鼻孔を擽る、優しい香り。
「私、本当は……」
そしてそれよりも甘い、言葉──
……それよりも遠くから聞こえる、あの音は。
翼。
ぴぃっと鋭い音が頭の片隅で鳴り、反射的にイクスは姫の手を振り解いた。
調べもざわめきも、全てが遠い世界。
ここは、何処なのか。
イクスは目を閉じる。瞼の上に手を当てて、瞼の裏に焼き付いた目の前のメルエディアの笑顔ではなく、心の奥に記憶したメルエディアの姿を思い起こす。
「イクス」
困ったような窘めるような声音に首を振った。
もうその名前に呪力はない。
真に剣を捧げた姫以外から呼ばれても、心動くわけがない。
いつの間にかこの世界丸ごとを閉じこめた術の中に捕らえられていたのに気付いて、イクスは静かに一歩下がった。
「どうしたのです?」
素直に目を開ければ、またはっきりと見える幻に囚われそうで、イクスはゆるりと息を吐いた。
綺麗に紡がれる音が、耳朶を打った。
「これが、貴方の夢でしょう?」
「俺の夢は──」
夢を、欲望ではなく、真に目指すそれを言うのならば。
「我が剣を世界の剣に、我が盾を世界の盾に。我が命は世界の騎士であること」
その言葉。それがイクスを院へ導いた。それが、現実のメルエディアがイクスと踊りながら頼んだ言葉。それが、誓いし事。
幻の姫が一笑しようとしたのを、しっかりと眼を見開き発したイクスの声が押し止めた。
「我が心は、永遠に姫の忠実なる騎士であることを」
それ以上は望めなかった。
果たして夢に限りがあるのかイクスには分からない。一つの夢が叶えば、また次の夢が現れ欲しくなる。際限ない夢。
問題は、どこで折り合いを付けるか。
自分は一番醜い選択をしたのだと、ずっと思っていた。愛する姫も、信頼する友も失わないために、自分が傷つかないように。
それでも、間違ってはいけないことが一つだけある。
己は騎士であること──今はまだ院の騎士と名乗れなくとも。
「自分、イグゼフォムは“世界”に騎士として認められてから、貴女のお側に戻ります。誓いを果たし真の騎士になる為に」
メルエディアは引き留めなかった。お互いの役目を果たしましょうと言って、見送ってくれた。その傍らにプジニア王がいた。
きっと二人は倖せになる。自分はその倖せを守る、騎士にならなくてはならない。
「夢だとすれば、これは──見てはいけない、悪夢だ」
言葉に、幻の姫が大きく眼を見開いて。
一際高い、あれは鳥の鳴き声。
「メルエディア様!」
その胸から純白の剣先が生えた。