有翼獅子失踪事件対策本部・前編

 それはある晴れた朝のこと。
「スィフィルさぁん。そろそろ授業ですよ?」
 緊張感のない声がゆらゆらと揺れて聞こえる。
「あと五分だけや〜」
 ぽてぽてとスィフィルがくるまった布団を叩いたリートは、なかなか起きる気配のない同室者にべそをかきそうな様子を見せている。
 いつもはリートの方がなかなか起きず、スィフィルに布団から引きずり出されたりするのだが、宿題が終わっていないとかでスィフィルは先程まで起きていたのだ。
 そのまま寝ないで授業に出ようと思っていたところ、やはり同室者が起きていてはぐっすり眠れなかったのか、リートが常より早く起きてしまった。そこで「起こして差し上げますから、少しでも眠ってください」と申し出たのがいけなかった。
「後五分で、授業始まっちゃいますよぉ」
「なにぃっ!?」
 瞬時に覚醒したスィフィルが跳ね起きて、寝台の脇の時計を見ると……見ると──。
「なんで時計がないんねん!」
「あ、スィフィルさんがぐっすり眠れるように、僕の布団の中に入ってます」
 秒針て、うるさいじゃないですか。
 良いことをしたと微笑んでいるリートはそのままに、スィフィルは恐る恐るリートの寝台に広がった布団を剥ぎ取った。
「……遅刻してまうでないか!」
「だからそう言ってますよぉ」
 む、と唇を尖らせたリートだが、あの間延びした起こし方では、それほど時間が迫っていると思えないのも事実だ。
「ちーとばかし気ぃ利かせ過ぎや」
 寝る前にリートの言うことを聞いてパジャマなんかに着替えたものだから、着替えに手間取る。
「あ〜っ。急いどんのや!」
 脱ぎ散らかしたそれを自分の寝台の下に蹴っ飛ばし、スィフィルは制服を掴むと部屋を飛び出した。
「あ、待って下さい」
 階段を一気に飛び降りたスィフィルを、リートが慌てて追う。
 申し訳ないとは思うが、待ってられないのがスィフィルの現状だ。カイ教師の一年生必修授業:言語学α。遅刻すればどうなるかは、リートも知っての通りだ。凄まじい速度で進んでいくこの授業は、一分一秒でも講義を聞き漏らせば付いていけない密度の濃いものだし、特に“文”部門が得意と言えないスィフィルは毎回混乱しているくらいだ。それに出席点を重視されている。
 何のために宿題を終えたのか、遅刻したら分からなくなるでないか。
 リートを大きく引き離して寮の玄関を飛び出たスィフィルは、しかしそこでたたらを踏む。
 最初に圧倒されたのは、スィフィルの四倍はあるだろう巨体からだった。
 目の前の足に付いた、大きく荒々しい爪。これで切り裂かれたら痛いだろうと頭の片隅が暢気なことを考えている。
 ばさりと言う、嵐に樹が揺らされた音がして見上げると、巨体を支えるに相応しい大きな翼が目に入った。
 逆光に遮られてただ己を圧倒するそれと対峙し、スィフィルは唾を飲んだ。
「な、なんやねん……」
 ぐるりと頭の位置が動き、スィフィルを見下ろした。
 陽光が雲に遮られ、その姿が顕わとなる。
 鷲──を大きくした頭。その鋭い瞳は理知的と言える光を宿している。
 スィフィルは暫し、状況も忘れてその姿に魅入った。
 それは高潔だった。いっそ恐ろしいとも言える力を感じた。そしてなにより、美しかった。
 が。
「スィフィルさぁん、待って下さいよ〜」
 ふいに辺りの空気をリートの声が破った。
 はっとして振り返ったスィフィルの背後から突風が吹いた。
「うわっ」
 吹き飛ばされそうな勢いに背筋を縮め、目を思わずきつく瞑る。ばたばたと髪の毛が首筋や頬を叩いて過ぎていき、スィフィルがようやく落ち着いて目を開けた時には、リートが玄関の扉を閉めているところだった。
「あ〜、追い付きました」
 にこにことしてスィフィルを見やるリートの、その何の変化もない視線を辿って振り向くと、先程まであの圧倒的な存在感を持ってその場を支配していた巨大な“なにか”は跡形もなく消えていた。
「……なぁ、今さっきここに、なんやどエライ大きな生き物がいたでっしゃろ?」
「え? 知りませんよ?」
 不思議そうな応えに、息が止まる。
 ほんの一瞬。目を離した隙に消えてしまったあの美しいモノに、スィフィルは心を飲まれてしまったいた。
「ほな……あれはなんやったん?」

「そりゃグリフォンだな」
 院の生物関連専任であるリカルド教師にあっさりと言われ、スィフィルはがたりと椅子から転げ落ちた。
 今朝はその生物の為にすっかり時間を食ってしまい、結局カイ教師の授業には遅刻してしまった。お陰でカイ教師にはしぼられるし。
 しかしあの遭遇に対し、その為の苛立ちはない。
 むしろ消えてしまってからの喪失感の方が──
「グリフォンてなんですか」
「主に鷲の頭と翼、前脚を持ち、ライオンの胴と後ろ足を持つと言う生物だ」
 借り出していた実験道具を返却するため訪れていたレイヴが、リートの疑問に丁寧に答えてやる。
「……それって、鷲なんですか? ライオンなんですか?」
 いや、だからグリフォンなんだろう。
 心中で三人が同じ突っ込みを入れる。
 それにしても分からないのは、そんな生物が何故院内を闊歩していたのか、という点である。スィフィルはむぅ、と唸り声を上げた。
「何をそんなに難しく考え込んでいる」
 お前だと知恵熱でるぞ、と茶化しながら灰色の瞳が覗き込んでくる。
「ほなら先生には分かりまっか?」
 あの生物は、どこから現れたのだろう。
 もともと生息していたとは考えられない。それならばスィフィルよりも先に誰かが気付いたであろうし、何時産まれたのか、まさか一族がいるのか、とまで考えると有り得ない話だ。
 先刻のようにあっさりとは答えられまい──そう思うスィフィルの前でリカルド教師は、ああ、と頷いた。
「あれ、この前逃げ出した奴だろ」
 は?
 その言葉に意表を突かれる。目が見開らかれ、いわゆる目が点なるという状態になる。
「いやぁ、ロアンと実験やってたら、召喚したのはいいんだけど制御失敗してな。一昨日から探してたんだ。カイに見付かると厄介だし──」
「興味深いお話ですね、リカルド教師」
 唐突に背後から聞こえたのは、さほど低くない、つい先ほどスィフィルとリートを叱責していた手厳しい若教師の声。
 リカルド教師の笑顔が不自然な位置で固まった。

「と言うことで、ここに有翼獅子失踪事件対策本部を設置する!」
 わーぱちぱち。
 気のない拍手と心底楽しそうな笑顔とに応えて、リカルド教師は観客を静めるような動作を──ようするに片手を挙げた。
「なして此処でっか」
 でかでかとした垂れ幕に目を見張る達筆で『有翼獅子失踪事件対策本部』と書かれたそれは、恐らくミミズがのたくったような文字の主であるリカルド教師のものではなく、ユ=ノ教師辺りの作によるのだろう。
 それが。
 男子寮の。
 スィフィルとリートの部屋に。
 飾られている。
「せやからなんでやねん!」
 迫るスィフィルをひらりとかわし、リカルド教師は一昨日の方角を向いて「フジさんがきれだな〜」と訳の分からない事を言った。
 これがフォウルならば「だってオレ探すの面倒だもん」とか言い出しそうな雰囲気である。
「リ・カ・ル・ド教師〜っ!」
 あまり騒がしいので、他の部屋から野次馬が来る始末だ。
 こほん、と集まった学生たちを前に、リカルド教師はスィフィルを引き剥がした。
「あ〜、判った。私も馬鹿ではない。成功報酬として“文”科目ポイントに下駄を履かせよう」
 空気がどよめいた。
 太っ腹な裁量にと言うより、カイ教師に知られれば今まで以上に大目玉を食らうであろうに、最近迷いの森に住む悪友の影響か、後先考えない所が増えてきたリカルド教師へのお悔やみのような感じであったが。
 しかし、その報酬に眼の色が変わった学生が、本部に一人。
 勿論“文”部門最低得点を更新中のスィフィル・クロス当人である。
 彼は燃えた。元々、一旦火が付けられるとオイルを染み込ませた紙以上に燃えやすい彼である。はしっと立ち上がって高らかにかのグリフォンを捕まえることを宣言していた。