夢から覚めても 2

 もう一人の教室長であるアーデリカの行動は素早かった。
 スィフィルが、救護室のホリィ教師による完治宣言後も出席してこないのを見て取ると、毎日足繁く男子寮に通うと同時に、院を取り締まるアエネラに──こういう時は、“白”フォウルよりも“院の姫”たるアエネラの名で誓って貰う方が効力がある──事態を説明した。
 成績への影響を出来る限り止めて貰えるよう、である。
 アエネラに話した影響で、ルクティ教師が監督不届きの件で査問にかかったらしいが、それは黙殺する。
 周囲を整えた後は、足を使うのが彼女の持ち味だ。
 毎日昼休みになると手作りの料理と共に現れるアーデリカの熱意に絆され、次第にスィフィルは押入から出るようになった。だが喪失した自信とやる気は戻らず、授業に出る程の気力は生まれなかった。
「ボクが院に来れたのは間違いな気がすんねん」
 一度そう問うと、アーデリカは自分の方が苦しそうに顔を顰めた。その問いは、彼女が常に自分に向けているものと同じだった。
 それでも、この日参を止めることはなかった。
 そしてこの日もアーデリカが持参したシチューを食べながら、スィフィルはふと持ち前の明るい社交性を取り戻し、パンをくるりと回して言った。
「先輩、ボクの母はんの若い頃に似とる。うちの母はんは昔どエライ綺麗な人やったんやで。楊貴妃みたいな」
「あら、そんな口が叩けるならもう平気ね」
 常と同じく、三人分はシチューの残りが入った鍋とパンをバスケットに入れ、アーデリカは立ち上がった。
「それじゃ、わたしは行くけど──」
 ふと、その瞳が気遣うように柔らかくスィフィルを見下ろした。
「一緒に行かない? 会わせたい人がいるのよ」
 今までどうしても動く気になれなかったスィフィルが思わず頷いた理由がなんなのか、本人自身にも分からなかった。

 “院”を包み込むように、また“院”に包まれるかの如く存在する深い森。その通称を知らない者はいない。
「ええんですか、ここ入っても」
 一度足を踏み入れたが最後、二度と出ては来られない魔の次元“迷いの森”を進むアーデリカの背中に、スィフィルは恐る恐る問いかけた。
 彼は未だ、真実この森に足を踏み入れたことがなかった。
 普通の学生ならば、この非常識な場所とはなんの関わりもなく暮らしていけるからだ。
 土と樹木の匂いが充満する道なき道。先導する彼女のスカートから生えた脚が気になって視線が落ちるのを、必死に持ち上げる。
「あら、平気よ。そりゃ慣れない内は迷っちゃうから、入らない方がいいけど」
 同じような景色が続く中、彼女の目には見える道があるかのように迷いなく進んで行く。少し余裕のある態度でくすりと笑うと、アーデリカは前を指した。
「大丈夫。行って帰る道には自信あるわよ」
「行って帰る?」
 一体どこへ、と鸚鵡返しに聞いた舌の根が乾くより早く、突然その場所は現れた。
 開けた空き地には色とりどりの花が咲き、こぢんまりとした木製の小屋が建っていた。アーデリカは玄関に取り付けられた小さな鐘を鳴らし、扉が開くのを警戒して一歩下がった。
 ぱたぱたと軽快な、しかし全速力で走っているのが明らかな速度で、玄関に近付いてくる足音がした。
「はい、お帰りなさいっ。フォウル様!」
 いきなり扉が押し開けられ、小さな人影がアーデリカに抱き付いた。が、顔を胸元に埋めたかと思うと直ぐさま離れ、瞬時に顔を赤くして小屋の中に逃げ込もうとする。
 アーデリカは閉められかけた扉に足を差し入れ、閉め出されることを阻止した。
「刹ちゃん、いい度胸してるじゃない」
「で、出てけっ。中には入れないぞ」
 しかしアーデリカがバスケットを持っていない左手で扉を掴むと、数秒もせずに開けきられてしまう。勝手知ったる他人の家、とばかりに中へ入っていくアーデリカを追って、刹は威嚇の唸り声を上げた。
「フォウルはいないの? 食事持ってきたんだけど」
「持ってくるなって言ってるだろっ。おれだって料理くらい出来る」
「ん、腕は良いんだけど野菜不足してるし、フォウルの気に入る肉メニュの使い回しだしね」
「それでいいんだって!」
「刹ちゃんだって成長期なんだから、もっと栄養あるもの食べないと……あら、スィフィル君は何処に行ったのかしら?」
 連れてきた少年の姿が消えたことに気付き、アーデリカの笑顔は引きつった。

 スィフィルがその場から消えてしまったのは、本人の意思に関係なく不慮の出来事であった。何故突然小屋が現れたのか気になり、一歩後ろに下がった途端、森の中に逆戻りしていたのだから。
 幹に背をぶつけ、驚いたのは彼の方だ。
 前に戻ってみても、先程の小屋には辿り着けない。
 スィフィルは自分が完全に迷子になったことを知った。
 それでも正しい道に出ることが出来ないか、幾らかは歩き回ったが、如何にしても代わり映えのない森の風景に変化はなく、遂に諦めて地面に座り込むしかなかった。
「だめや。助けを待つしかないわ」
 落ち着くために呟いた瞬間、恐ろしい考えに思い当たる。
 アーデリカは自信があるのは行きと帰りの道だと言っていた。逆に言えば、それ以外は怪しいと言うことだ。
 と言うことは、このままここで野垂れ死んでしまうのではないか。
 それは鈍い衝撃となってスィフィルの脳を強打し、だが同時に、自身を見失っていた彼に甘い誘惑としてそれは響いた。
 負けたまま村に帰るくらいならば、いっそこのまま朽ちて逝く方が楽なように思えた。
 いっそこのまま、気付かぬ内に逝けるよう寝てしまおうか。
「おぉい」
 鼓膜を振動した音にも、スィフィルは無感動に対応した。いや、むしろ幻聴が聞こえ始めた自分が長くないことを思って、彼は微笑んだ。
「おい、聞けよ」
 ぺち、と頬に当てられた革の手袋の感触で、漸くスィフィルは現実に意識を引き戻された。
「あ、なんやねん、あんた」
「いや、何って言われてもここはオレの土地だしなぁ」
 本気で困った様子を見せ、男はむ、と唸った。やや険のあった表情が、途端に愛嬌のあるものに変わる。何処かで会ったことがあるかと思える顔だが、スィフィルは未だ意識が混乱しているのか、よく思い出せずに首を傾げた。
「迷子なら連れてってやるけど、どうする」
 その言葉にスィフィルは怯えあがった。
 出来るだけ身体を小さくして男の視線から逃れようとし、それが不可能なのを悟ると、目を閉じた。
「……ええんです。ボクはここに居まんねん。何処も行くとこないさかい」
 アーデリカは必死に掛け合ってくれたが、怪我の治療が済んでも授業に参加しないことで、厳格なカイ教師らが受け持つ授業成績は既に最低点だと言うことだった。そうでなくとも、既に発生した進度の遅れを、試験も近い今になって取り戻せるだろうか。
 初級生内の最低成績保持者は退校しなければならない。だが、そんな処分を受けて、おめおめと村に帰れるとは、スィフィルには到底思えなかった。
 男はスィフィルの返答に息を吐き出し、腰を下ろすと手袋を外しスィフィルの頭を撫でた。
「それでいいのか?」
 静かに響く、その声。
「独りで残されて、いいのか? もう誰にも会えなくて、いいのか?」
 部屋の押入に閉じ籠もり、リートからの呼び掛けも全て黙殺した。暗くて、独りぼっちの重苦しい空間。人々に愛されて育ったスィフィルが、初めて体験した時間。
 その世界に押し入ってきた──アーデリカ教室長。
 知らず、スィフィルは今更の悪寒に膝を抱え、涙を流していた。
「い、いやや」
 独りは嫌だ。誰にも会えない日々は辛すぎる。そして誰の記憶からも消えていってしまい、自分という存在がなかったことになるのは、悲しかった。
 泣き縋るスィフィルを優しく抱き留めてくれるその男の胸は、とても暖かかった。
 その体温は、人の温もりをスィフィルに再認識させ、また涙が零れた。

 結局、散々泣き散らしたスィフィルは気持ちが落ち着くと、例の小屋まで連れて行ってもらうことにした。
 改めて聞けば、彼がリートらの良く言っていた「迷いの森の非常識な住人」だと分かった。
「分かってれば、この森は抜けるの簡単だぞ。近道にも出来るし」
「せやけど、どこも同じような景色で、何処におるのかわからん」
 アーデリカ以上に自信を持って断言する男に、スィフィルは首を傾げた。すると男は人好きのする笑い声を立てて、辺りを指した。
「そりゃ、この森は空間が捻れ曲がってるからな。運が悪きゃ、同じ場所を延々回り続けることになる。ま、これを一人で抜けられるようになれば一人前だな」 
 自分にも抜けられる日が来るのだろか。
 そんな思いが顔にでたのだろう。男は肩を竦めるとスィフィルの顔面で指を一本立てた。
「始めっから出来なくてもいい。出来ないことは人に教われ。それともお前の友達は、手を貸してくれないような嫌な奴なのか?」
 ああ、大丈夫だ。そんなことは絶対にあるまい。
 スィフィルが顔を綻ばせたその時、突然スィフィルの名を呼ぶ声が間近で聞こえ、数秒遅れてアーデリカが虚空から飛び出してきた。
 この森の仕組みこそ理解したものの、驚きに瞬きしたスィフィルの身体に、アーデリカの両腕が回された。
「良かったわ、見付からなかったらどうしようと思っちゃった。でも凄いわスィフィル君。ちゃんと道に戻れるなんて!」
 スィフィルは訳もなく赤面し、狼狽えた。
 頬に当たる彼女の髪の感触は思いがけず柔らかく、フローラル系のシャンプーの匂いが鼻孔をくすぐる。
「あー、リカ。子供の前でそういう事はやめようね」
 脇から掛けられた声に、アーデリカは弾かれたように動いた。
「や、だ……フォウル。いたなら、言ってよ」
 その言葉で漸く、スィフィルは自分を救い、今また刹という少年を抱きかかえ苦笑する男の名を思い出した。
 フォウル。院の最高位の騎士“白”。
「お昼、持ってきたのに冷めちゃったわ。……食べてね」
 対するアーデリカの声音は、気恥ずかしさからか妙に艶のある声だった。
「サンキュ。何時も悪ぃな。じゃ、帰りは迷うなよ」
「あっ、フォウル、この子に──」
 スィフィルを彼の前に出そうとしたアーデリカを制し、フォウルは少年に笑いかけた。
「もう、大丈夫だろ、スィフィ?」
「はい!」
 元気よく答えるスィフィルに唖然とし、アーデリカはそのまま、木陰に消えて行く男を声もなく見送った。スィフィルがそっと視線を移すと、常の姿からは思いも寄らない切なげな笑みを浮かべる。
「……変な人でしょ、フォウルって」
 それにどう応えていいものか、スィフィルは理解しかねる。
「いつもフラフラしてて頼りないのに、凄く優しくて、暖かいでしょ」
 スィフィルの人生十三回目の仄かな恋心はその瞬間、本人にも自覚されないままに昇華され、心の奥にそっと仕舞われた。

 それからのスィフィルは目覚ましかった。
 成績はやはり初級生内最低まで落ち込んでいたが、徐々にその差を縮め、ワースト二位のリートに追い付こうとしている。
「う。負けるなよ、リート」
「手を抜いちゃ駄目よ、スィフィル君!」
 お互いに複雑な気持ちを抱きながらも、各後輩を応援し。
 そしてその学期の最終授業日が終了した。
 “文”と“芸”の授業で最後にもう人かき水を空けようとしたリートに、“武”の試験で高得点を得たスィフィルが並ぶ、と言う結果で。
「同率ポイントだもの、二人とも平気よ」
 アーデリカは楽天的に笑い、心配性のイクスは細かい規定を探そうと大量の資料を読み直した。
 そして二周期の休みを前に公式結果が掲示され──


 スィフィルの退校が決まった。