白を継ぐ者 青金色の瞳・前編

 その日、ベーギュウム教師はどこか慌ただしく授業を終えると、わたしたちに解散を告げた。

 本当は午前中の授業は気が重い。昼休みが長いのは結構だけど、その分、朝の時間が減っているんじゃないかしら。
 もっとも自分の故国でも学舎に通っていたはるかに言わせれば、わたしたちの不平は贅沢なものらしい。曰く、ツーキンデンシャがないだの、朝八時起きなんて全国のシリツコーの皆さんに申し訳ないだの。
 でもね、わたしは夜が遅い分だけ、やっぱり朝はきついわ。──勿論、夜遅いと言ってもエファとは違うわよ?
 朝だって、みんなより一足先に教師棟にお邪魔して、今日の授業の諸事務なんて仕事が、教室長には沢山あるのよ。
 今日だって、まずはベーギュウム教師と打ち合わせて……そう、ルクティ教室のイクスと会ったわね。
 彼とは、もう長い付き合いな気がするわ。
 今より素直だったラメセスや、今より更に熱血漢だったイクスや、何でも出来ると信じてたわたしたち。あの頃が懐かしく思えるのは……フォウルなら、歳のせいにするんでしょうね。
 何にせよ、その時──
 ああ、思い出した。どうしてベーギュウム教師が急いでいるように見えた、いえ、急いでいたのか。
 転入生の審議会があるんだったわね。
 いつもの如く、気紛れとしか思えない手軽さでフォウルが拾ってきたのだと、リカルド教師が言っていた。
 あ──。
 ……スィフィル君の席は、空いてるのよね。ひょっとすると、その子はこの席に座るのかしら。
 ……やっぱり、苦しいわ。
 フォウルは、どう言うつもりなのかしら。
 スィフィル君の退校も、今度の転入も。彼がなにを考えてるのか、ちっとも分からない。
 ……当然ね。話してくれない人の心が分かる訳ないわ。
 わたしは、人の機微について訳知り顔で話せるほど賢くない。だって、それならラメセスがあれ程変わってしまうのを止められたかもしれないし、そのせいでイクスが傷付いたのを、手をこまねいて見ているなんて無様な真似もなくて。
 もう少し、フォウルもわたしと話してくれるかもしれない。
「リカ、あたし仕事が入ったから遅れるわ。先に食べていて」
「分かったわ。じゃ、テラスに行ってるから」
 エファは院の情報を一手に握っている。勿論それは学生レベルで、ではあるけれど、わたしですらその情報の早さには驚かされることが多い。
 多分、転入生の話をもう掴んだんでしょうね。他に、ニュースがあるとは思えないから。
 それにしても本当に、彼女の情報網はどんな具合になっているのかしら。日頃フォウルの動向に注意しているわたしだって、今回の転入は今朝リカルド教師が漏らしたのを聞いて、初めて知ったって言うのに!
 わたしは荷物を畳んで、テラスへと足を向けた。

 珍しいことに、空中テラスにいつものルクティ教室の面々はいなかった。
 テラスで一番眺めがいい席と、そこから一つ離れた白いテーブルの辺りを陣取る人影はなくて、わたしはちょっと席に座るのに気が引けた。
 どういう訳か──やっぱりエファの情報なんでしょうけど──わたしが“院の姫”として候補認定を受けたと言う話が学生たちにまで広がり、以来この眺めがよい特等席は、わたしの席として空けられた。
 そしてその隣の席には、何時でもイクス達ルクティ教室の子たちが。
 そこが埋まって初めて、他の生徒たちは安心したように周りに座り出すのだった。
 決してそんな扱いを望んでいる訳ではないのに。むしろ周りの人間がそういう扱いをわたしに与える事で楽しんでいる節すらある。ここの人間は、カイ教師のように真面目すぎるか、フォウルくらい気の抜けた冗談のきつい人が多いから。
 でも、そこに座らないと言うのも、なんだか妙な話で。
 結局いつもの指定席に向かったわたしの眼は、ふとルクティ教室の面々がよく使うテーブルの上に置かれた、余り趣味がいいとは言えない湯飲みを見つけた。
「……キリン?」
 それと、もう一つのピンク色のはウサギ、かしら。
 その横には焼き菓子らしき欠片が散乱していて。
 湯飲みはリート君の趣味っぽいけど。──食べ散らかしの方はロアン辺りかしら。
 釈然としない気持ちを抱えながら、お昼に頼んだパニーニを口に運ぶ。エファは遅くなったり、結局来なかったりすることも偶にあるから、遠慮せず食べてしまうに限る。
「あら、サイファ教師……」
 間違った。今はただのサイファだったわ。
 つい昔の癖で呼んでしまったわたしに、サイファは静かな眼差しを向けた。
「一人か?」
「そう。珍しいことにね」
 フォウルの所に行ったっていいけど……。例の転入の事で忙しくしてるんだろうし、それで何時も以上に刹に嫌われるのも、つらいわよね。
「あいつは一旦帰ったが」
「だからって刹に迷惑がられに行く気力が、今ないの」
 正直な気持ちを告白したわたしに、サイファ教師は目元を弛めた。
 この人は──フォウルとは全く性質の違う、何かを悟ったような人格を兼ね備えた人よ。どうしてフォウルと衝突せずにやっていけるのか、理解できるような信じられないような、そんな気がする。
 わたしの目線に促されたように、サイファは隣の椅子をひいて腰を下ろした。
「どうも、疲れているようだな」
 ばればれなのね。
 子供のように肯いたわたしの頭を、彼はそれに相応しい応対で──ようするに頭を撫でて、慰めてくれる。
「あれは、ヒトの理解の範疇を越えているからな」
 わたし以上に付き合いが長いはずのフォウルを、サイファはそれでもそう評するのね。それじゃあ、わたしなんかじゃ何時になったらフォウルの事が分かるようになるのかしら。
「はたから見ていれば……他人を、利用しているように見えるし、な」
 その通りなのよ!
 人の気持ちを知ってか知らずか、自分の良いように使っているだけじゃないの?
 激しく肯定の意を瞳に込めたつもりのわたしから目をそらし、サイファは青空を見上げて呟いた。空と同じ澄んだ瞳が、何かを想ってか遠い空よりもっと遠くを見据えているような、そんな印象を与える。
「だが、利用されているのだとしても、それはそれで構わないか、と思ってしまう相手だな」
 ……そうなのよ。
 だから、憎めないのよね。
 でもサイファ教師からもこんな事言われちゃうなんて。結局、みんなフォウルに甘いんだから!

 何に対してだか自分でもわからないけど、なんだかショックを抱えたままわたしは午後の休みをぶらりと歩いて潰していた。
 結局エファが現れないまま、サイファも呼び出しを受けて行ってしまって。ほかの子たちの輪ができる前に、わたしはテラスを逃げ出したの。
 みんなが思っているほど、明るくないのよ、わたしは。
 なんだか気が抜けて、図書館前のベンチにだらしなく座り込む。
 “院の姫”なんて、選ばれなきゃ良かったわ……。
 四六時中気を張っていないと、自信が保てない。アエネラ様──現“院の姫”や、歴代の“姫”たちは、こんな事なかったのかしら。
 自信はあるつもりだけど、このまま進んでも平気なのか、時々異常な不安が襲ってくる。
「“姫、緊急事態です”」
「そう。で、なにが? ロアン、わたしを襲うつもりならもっと上達してからになさい」
「まさか」
 思いも寄らないことだ、と言いたげに色男は空に両手を広げた。
 あまり得意じゃない大仰な反応につれない視線を送ってやると、わたしの顔を背後から覗き込む彼は少し好感の持てる笑みを浮かべて、でも直ぐに気障なウィンクを放って、人差し指をそっとわたしの唇に当てた。
 触れたか触れないか、こちらにも分からないくらい微妙な距離。
「今は後ろに嫉妬深いお姉さまがいらっしゃるから、そんな真似は出来ないんだ。ご要望に添えなくて残念だよ」
 嫉妬深い、お姉さま?
 彼流のジョークでしょうけど、ちょっと思い当たらなかったので首を回してみようとすると、それを押し留めてくる。
 優しそうな顔はしているけど、悪い男の見本みたいな奴だわ。
 不本意だけれど、わたしはロアンの顔を見つめたまま話を続けるしかないわけね。
「“お姉さま”を待たせときながら、こんな距離で話してて良いわけ?」
「だってこれは緊急事態だから」
 くすりと表面だけで笑って、彼は私の瞳をじっと見つめてくる。
 緑の虹彩が、わたしの顔を映していて、その中のわたしの瞳もわたしを見据えていて……。
 ……。
 ……あ。
「わたしの頭の中を探っても無駄よ。サイキッカー」
 こういう不届き者に院の機密を漏らさない為、わたし本人だって把握してないくらい充分過ぎるプロテクトが掛けられてるんだから。
 なんとなく絡繰りが見えて、わたしはこの狼藉者を懲らしめてやろうと決める。
「やだなぁ、オレの気持ち伝わってないの? こんなにリカを想ってるのに」
 女の子たちを夢中にさせるハスキーボイスが話す台詞。熱っぽく作られた瞳──愛されてると錯覚出来るくらいには、気持ちいいけど。
 それは院内の人間には通じないわよ、ロアン?
「そうなの? 初耳ね」
 ぐっとお腹に力を入れて、迎撃用の気持ちを高める。
 さん……
「疑ってるわけ?」
 にぃ……
「信じさせてくれるの?」
 いち……
「勿論。姫さまの望むように」
 ──対色男用最終兵器発動。
「じゃ、愛してるって言って」

 撃墜完了。