白を継ぐ者 紫紺の瞳・前編

 おれはその日、いつもの通りの朝を迎えると、その後お出掛けになられたフォウル様の代わりに、二、三の書類を院の事務に届けに行った。

 事務からの帰り道、ちょっと喉が渇いたので空中テラスに──だって自分一人の為に家のお茶葉使うなんて勿体ない──寄ることにする。
 この時間はどの学年も共通で教室授業が入っているから、誰にもとやかく言われずにゆっくり出来る。そう期待しておれはテラスへのリフトに乗った。
 テラスに出た瞬間、誰かがずーっと茶をすする気の抜けた音がした。
 その音で、おれは先客がいたのに気付いて、ちょっと嫌だなぁと思いながら中を観察した。
 一番眺めがいいテーブル──から良心的に一つ離れた白いテーブルで、リートとイクスが向かい合って、爺くさい湯飲みを口に運んでいる。
 見なかったことにして帰ろうか……。
 一瞬、本気でおれは思ってしまった。だって変だろ?
 いつものお茶会、とか言うやつならあの二人は紅茶を飲んでたはずだ。でも今は似合わない湯飲みでお茶を飲んでる。それも授業時間に。なんか嫌な予感がしたんだ。第一名誉ある“白”候補や、必要以上にでっかい男があんな音たてて格好悪い飲み方するなよな。フォウル様ならそれも良いけど。
 でもおれも喉が乾いてるし、二人の他には誰も、意地悪してくる嫌な奴とかも見当たらなかったので、中に足を踏み入れることにした。
「あ、刹さぁん」
 相変わらず間は抜けているけど気持ちのいい声で、リートがおれを呼ぶ。
「今ね、“白”のお話をしてたんです」
 引き返さなくて良かった。
 “白”ことフォウル様の話とあれば、おれが参加しない道理がない。なんせおれは今のフォウル様の直属として任命されていて、たった今も、その書類を事務に届けてきたんだ。始末書だったけれど。
「やっぱり、大変なお仕事なんですよねぇ」
 おれは思いっきり頷いた。
 フォウル様は何時も、おれや周囲を心配させまいと元気に振る舞っておられるけど、本当はその重圧や膨大で多岐に渡る仕事に大変な労力を割いていらっしゃるんだ。……よくお仕事から逃げられて、おれがやってるけど。
 こほん。
「当然だろ。日々のお仕事にプラス、各種事件を情報機関から連絡を受けて派遣する院生を決めたり……それに、悪いヤツらから狙われるしな」
「悪い奴ら!」
 どうやら自分が大変なものに選出されたらしいと知って、驚愕しているリート。……の割に目がきらきらしてる気もする。
「リートはあんまり強くなさそうだから注意しないと。もちろんフォウル様は平気だけど」
 横でイクスが「俺が守ってやるから大丈夫だ」なんて言ってる。
 やっぱりリートは“白”なんてイメージじゃない。フォウル様が格好良すぎるからだろうけど。
「え、院内でも危険なんですか」
「そうだよ。だっていくら防護システムが優秀でも、院生とかが転移するために普段はレベルを下げてるしさ。いつ敵に襲われても対処できないといけないんだ」
 その証拠に、何時だっておれは武装解除したことがない。
 フォウル様くらい空間制御が出来れば、亜空間に得物を収納しておくこともできるけど、おれはいつも腕に着けてる──そう、腕輪に装着された紫玉が、おれの武器だ。
 おれの念に従って、剣の形態をとったり不思議の力が発動されるように作られた、フォウル様お手製の、全世界に一つしかない武器。フォウル様が、おれの眼に合わせて作って下さった玉。おれの、宝物。
 構造はいまいち良く分からないんだけど、確かフォウル様の解説によると、戦闘に向かう理力を感知して、あらかじめ作られている形に戻る機能と、フォウル様の偉大な研究によって生まれたイメージ強制共有による力の発動を可能とした……分からないや。
 とにかく、おれはリートたち学生や、その辺の院生とも違う意識を持って日々を過ごしているんだ。だってフォウル様の直属なんだから!
「じゃ、こんなクッキーとか放置されてたら妖しいですねぇ」
 ふいに、どこから取り出したのかリートは包み紙を解いて数枚のクッキーを取り出した。
「はい、お毒味」
「むぐっ」
 あ〜ん、と開いた口に一枚放り込んでくる。子供みたいな扱いされたのに、ついその毒気のなさに大人しく従ってしまった──。
 クッキーを飲み込む音が、やけに大きく脳まで届いた。
 あ、美味しい。
 おれ以外の二人もクッキーに手を伸ばし、おいしそうに頬張っている。
「……旨いけど、これどこから出したんだ?」
 まるで空中から物を掴み出す手品のように、気が付いたらリートは包み紙を持っていたんだから。
 それに対してばりん、とクッキーを口にくわえたリートは自分の学用品を入れているかばんを指した。
「気が付いたら鞄に入ってたんです」
「へーっ……って、えぇぇぇぇっ !?」
 一瞬相づちを打ってしまってから、おれは事の重大さに気が付いた。どうやらイクスも同じらしく、真っ青な顔をしている。
 涼しい顔なのはリートくらいだ。
「そんな変なもの食べさせるな!」
「さっきまでの話の流れはどうしたんだ」
「え、だってお」
 なにやらリートが答え返したが、その途中でおれの視界は大きくぶれた。
 骨盤に鈍い衝撃があって、おれは自分が床に尻餅をついたことに漸く気付いた。そして、それについて文句を言う前に、おれは──

 気が付くと、知らない場所にいた。
 どのくらい眠っていたのか、どのくらい院から遠いのか、予想も付かない。こんな失態は初めてだった。
 しかも咄嗟に探った右手の腕に、紫玉はなかった。
 ──フォウル様……。
 いつでもおれを守ってくれる絶大な力が傍にない。それが不安で堪らなくて、おれは身体を縮こませた。
 いつだったか、こんな闇の中で過ごしたことがある。
 寒くて寒かった。凍え死ぬと思った。闇の中から手が出てきておれを捕まえそうで、怖くて、怖かった。
 そこから連れ出してくれたフォウル様の暖かい手を、おれは忘れることがない。
 どんなに辛いことがあっても、フォウル様を信じていれば大丈夫だ。あの時からおれはそう信じている。
 ……でも、あの時って、いつ?
 ふいに、闇が開かれた。
 フォウル様──そう喚ぼうとして、言葉を飲み込む。
「やぁ。会えて嬉しいよ、セツ」
 馴れ馴れしい笑顔で、そいつはおれに顔を近付けた。
「さっきは慌ただしくて、よく顔も見えなくてね……見せてよ」
 普段外気に晒していない右目の覆いが外されると、なんだか不安定な気がする。両眼で見ても、闇はどこまで闇なのか分からなかったし、こいつが現れた空間はただ先が広がっているだけで。おれに分かったのは、ここが相手に支配された亜空間だって事。
「奇麗な顔、してるね。彼の好みかな」
 どこかの誰かを連想させる口数の多さだけど、その表情は全く変わらず、なにを考えているのかちっとも読めやしない。
 だめだ。
 レイヴが言っていた「相手に出来るだけ話させて、情報を入手する」なんて無理だ。
 少なくとも、おれはこういうタイプに黙っていられないんだ。
「何者だ。名を名乗れよ。何のつもりか、言えっ!」
 おれの地声はフォウル様に言わせると割と高いらしいので、意識した低い音で詰め寄る。
「何と言えばお気に召すんだい?」
 ああ言えばこう言う。
 揶揄られているのは分かるから、おれは腹を立てて相手を睨め付けた。
「君の気に入る情報としてはね、フォウルが助けに来てくれるらしいよ」
 ──しまった。普通に反応しちゃった。
 諸におれが喜んだのが分かったんだろう。こいつは可笑しそうにおれの眼を覗き込んだ。でも、その昏い瞳は笑ってない。
「嬉しいんだね。自分のために、フォウルが“院”の至宝を捨ててくれることが」
「!?」
 どういう、ことだろう。
 多分おれは今、アホみたいな顔をしているだろう。
「フォウルはね、君のことが随分と大事らしい……我々が思っていた以上に、さ」
 いやな口調の奥から滲み出たのは。
 とんでもなく息苦しい殺意だった。

 そのまま、おれは別の空間に連れて行かれた。
 蛇に睨まれた……ってのはこういう事か、てくらい、おれはあの殺意を向けられた後放心していたらしく、気が付いたら左右にリートとイクスがいた。
 後ろ手に縛られた以外は何の異常もない。
 さっきからのおれと同じだ。
 だけど一見イクスになら引き千切れそうなこの細い黒糸が、内側から発動する力をすべて抑え込んでいるみたいだ。紫玉があったなら切れたんじゃないかな、とは思う。あれは、外部で発動する力だから。
 でも、おれたちの自由を本当に奪っているのは、こんな拘束糸じゃない。
 深い大穴の上に渡された細板……の上に危ういバランスで立たされたおれたち。この状況が問題だった。
 誰かが少しでも重心を移動させれば、三人もろとも転落するに違いない。
 おれは冷や汗をかき通しだった。
 普段使わない右目で確認すると、リートだけは、あんまり深刻そうでなくいつも通りの表情でいる。意外と大物なのかも知れない。
 ふいに、左側のイクスが「あ」と声を上げた。
「フォウル様?」
「え、どこどこ」
 普段使わない右目は少し遅れて動くので、視点が定め難い。
「わ、た、頼む動くな!!」
 思わず身を乗り出した為に板の上は大いに揺れて、本気で落ちると思った。こんなことで死ぬなんて、かなり格好悪いんじゃないか。
 ……おれが悪いんだけどさ。
 イクスが見付けた人影は、既にあのいけ好かない奴には捕捉できていたらしい。黒フードの部下たちに、何か確認させている。
 おれの眼に知覚できたのは、もう少し後だった。
 院支給のフード付きマントが──二つ。
 二人?
 フォウル様がこういう状況で連れてくる奴について、おれには心当たりが一人いる。──ルクティ。今でこそ教師なんて似合わないことをしているけど、あいつはフォウル様の守護と戦闘サポートを担う裏方の“白”直属だった。
 だけど、ルクティの能力は“姿を現さずに存在”する、隠密行動で発揮されるはずだ。
「確かだな?」
「間違いありません。フォウルとルクティです」
 耳に入ってきたその報告に、おれは違和感を感じた。
 そんなはずは……
 数十メートル離された地点で、黒フードたちに阻まれた二つの人影は動きを止めた。二重三重に囲まれて、おれからは見えなくなってしまう。
「二九分三十秒。あんまり遅いから一人くらい落としちゃおうかと思ったよ」
「そんなことして見たら、取引とやらには応じないぜ?」
 感情を押し殺したみたいな、フォウル様の声がした。黒フード共が邪魔で、お顔が見えないのが酷く苛立つ。
 やっぱり、来てくださった。
 しかし、どうしてルクティを連れて来ているんだろう。
「──、白の宝珠と裏切り者を渡してくれればね」
 おれは人垣のこちら側に立つそいつをまじまじと見つめた。
 “白”、の称号を狙って現れた刺客はいた。白の宝珠、そのものを狙って現れた刺客はもっといた。でも、裏切りモノというのは初めて聞く単語だった。
 ……それで、ルクティ?
 フォウル様が何か言っていらっしゃるけど、おれには距離があって内容がよく聞き取れない。思わずもう一度身を乗り出しかけた瞬間。
「……え?」
 声を上げて、直ぐにおれはそれを飲み込んだ。
 隣にいるイクスの方にはさすがに聞こえていたらしく、一瞬おれを見やると、でも何事もなかったようにまた前を向いた。この辺りはきっと訓練の賜物なんだろう。リートは相変わらずのんびり構えている。
 あいつは、フォウル様と話をしていて、こちらに注意が向いていないようだった。
 大穴をぐるりと囲んだ黒フードたちは、この穴の大きさがネックになって、おれの声にも、何にも気付いていない。
 それを確認して、おれはゆっくりと足下に視線を落とした。
 そう。
 おれの、足下に落ちた影を。
 緊張が身体を走り、何かを話しているフォウル様とやつの会話がおれの意識から遠離り、追い出された。
 …………。
 す、と影の一部がその深さを増した、ように見えた。
 薄い爪先。
 白い指。
 そして、掴み出された紫玉。
 玉がおれのつま先に置かれ、そしてそれを運んできた白い手はまるで目の錯覚だったように再び影に沈んでいって、消えた。
 同時に、さっきまでおれの身体に憑依していた“なにか”が移動していったのが分かる。
 影を渡る暗殺者。
 影の中に潜み、影の中を自由に動き回る。教師となる以前はその術をもって、フォウル様の影に身を潜め唯一の護衛として働いていた。
 ルクティだ。
 だけど、ルクティがこうして動いていると言うことは、やはりあのもう一人は──
「ルクティ・アレフではない?!」
 やつが声を上げたのを合図に、おれは紫玉を拾い上げ、板を蹴り飛ばした。