天の響

13:真実

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 老女の頬には隠せぬ疲れが深く影を落としていたが、微笑みは優しく、二人へ均等に投げ掛けられた。
「マーブルさん!」
 潜めた語尾が弾み、少年と女は互いを分ける冷たい鉄越しに触れ合った。
「こんにちは、ジーニアス。そちらはお友達?」
 マーブルと呼ばれたその老婆の顔には、コレットの祖母ファイドラと近しい年齢が刻まれていた。村の長者として厚遇されているのが道理だ。だと言うのに、粗末な布を一枚纏った姿で労働を科せられているとは如何なる女神の思し召しだろう。まるで紙のように薄く短い袖から伸びた腕は枯れ木同然で、その上を青い痣と赤い痣とが交差している。
 痛ましい思いにロイドは一度瞳を伏せ、それから笑みを作った。
「ロイドだよ」
 ジーニアスの友達ならば、己にとっても友達だ。例え牧場の人間だろうとも。そうと思えば、自然二人の笑みは柔らかいものとなった。
「よろしくね」
 ジーニアスの両手が無邪気に柵を揺らす。途端、羽ばたきの音がして白と黒の混在する羽毛がゆらりと落ちた。
「マーブルさん、見た? 神託があったんだよ」
「ええ。救いの塔が見えたわ。これでようやく神子さまの再生の旅が始まるのね」
 落ち窪んだ眼がロイドとジーニアスの間を通りその先へ向けられる。その時初めて、ロイドは背後に広がる景色に気付かされた。遙か遠く、海の先、幾重にも重なった雲を越え、落下する陽に彩を増す空の中にあって、ただ真白い天へ続く塔が在る。
「今度こそ成功して欲しいわ」
 村の皆も同じことを口にした。だが彼女が言うほど重い言葉だったろうか。
 牧場から生きて出てきた人間はない。世界再生が成されぬ限り、彼女は終生使役されるのだ。
「前の神子は失敗したんだって?」
 先代の再生の神子が旅立ったのは、ロイド達が生まれるより前の話だ。
「ええ。途中でディザイアンに殺されたと聞いているわ」
 今日聖堂に現れたように、ディザイアンは神子の命を狙う。世界が再生されれば彼等は今の地位も肉体も失い、時空の彼方に封じられるのだ。
 再生の旅は、なんと遠く、危険に満ち溢れていることだろう。
「コレットは大丈夫かな」
 不安がジーニアスの口から零れた。
「マーテルさまに祈りましょう。神子さまを導いてくださるよう……」
 骨張った指が胸の前に置かれ、マーブル達は瞳を伏せた。
 祈りは尊い。眠れる女神であっても、真摯な祈りには寝返りの一つくらいしてくれるだろう。だがそれでもただ祈っているより、コレットを直接助けたいとロイドは密かに思う。
 傾く陽射しが檻の向こうに格子模様を作り、老婆の手元を照らした。自然のものと別の、青い光が零れ落ちる。
 はっとしてロイドは声を上げた。
「ばーちゃん」
「マーブルさん、だろ!」
 間を置かず入れられた親友の厳しい叱咤に少し気圧され、ロイドは首を縮めながら、柵の向こうの細い手を指した。
「マーブルさん、それ、エクスフィアじゃないか?」
「そういう名前なの?」
 笑みと同じ柔らかさなど望めもしない乾いた指先が、甲に埋まった石の表面を撫でた。
「ここに来て直ぐに埋め込まれたんだけど……」
 マーブルが手を翳すと、ロイドやクラトスのものと同じ輝きが、そこに深く根を張っているのが見えた。
「うん、やっぱりエクスフィアだ」
 エクスフィアは元来ディザイアンの道具だから、牧場内の労働の効率を良くする為に与えられでもしたのだろうか。その力が老女に作用を与えているようには見えなかったが、恐らく装着者の力を高める効能には差があるのだろう。
 しかし、細い手を見てもう一度ロイドは首を傾げた。
「でもかなめもんがついてないな」
 要の紋がないエクスフィアは体に毒なのだ、と告げれば、本人に代わりジーニアスが眉を顰め問い返した。
「要の紋って何?」
「エクスフィアは、肌に直接つけると病気になるらしいんだ。それなのに肌に直接つけなきゃ意味がない。だからエクスフィアから毒が出ないように制御するまじないを、特別な鉱石に刻み込んで土台にするんだ。それが要の紋だよ」
 言葉を続けるのに連れて、少年の顔が青褪めていった。
 胸に垂れ込めた暗い霧を払おうと、屈み込み、伸び上がり、柵の向こうの細く痩せた手に目を凝らす。
「でもマーブルさんのエクスフィアには、土台自体ないみたいだよ」
 ロイドも気付かないでなかった。
「そうみたいだな。呪を彫るだけなら俺でもできるんだけど」
 乾きを覚え嚥下した唾が、喉の節々に引っ掛かる不快な感触を残した。
「土台になる抑制鉱石が付いてなけりゃどうにもならねぇ」
 ジーニアスの眼が零れ落ちそうなほど大きく見開いた。
「そんな! 何とかしてよ」
「要の紋ってのはドワーフの特殊技術なんだぞ」
 簡単に言ってくれる少年に思わず嘆息し答えを引き延ばそうとしたものの、次に言われるだろう言葉はよく分かっていた。
「じゃあダイク小父さんに頼んでよ」
 確かに、マーブルをエクスフィアの害から救うにはそれが最善だろう。だがロイドは即答することが出来なかった。
 ロイドの養父ダイクはドワーフ族だ。地底深く隠れてしまった一族の技術を地上に伝える、ただ一人の技師。彼ならば要の紋を作る秘術を知っているだろう。
 だが――脳裏を、人間牧場にだけは関わるなと強く言った養父の顔が過ぎった。
 その手で鍛える鋼よりも強い拳骨は恐ろしい。そしてそれ以上に、どんなに学校の成績が伸びなくとも悪い遊びをしようとも受け止めてくれた父親が、これだけはと言い含めた約束を破る事になるのが、ロイドを躊躇わせた。
 もっとも、この件を言い出したのは自分であったのだから、ジーニアス達を恨むのはお門違いだ。
「わかったよ」
 養父自身、目の前の友を見殺しにする筈がない。ドワーフの誓いもそう謳っている。その父の子である自分が、今マーブルが手に抱えた危険を見殺しにして良いわけもない。
「本当!? だからロイドって大好きだよ」
 調子の好い奴、と思いながらも、頼られる気分は悪くなかった。
「無理はしないでね」
 マーブルが瞳を細め礼を口にしようとした、その時。
「そこのババァ! 何をしている!」
 突然響いた鋭い誰何の声に、三人は背筋を強張らせた。