天の響

16:月夜

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 蒼醒めた月の光に代わり、親しい金の輝きが部屋に入ってきたのはそう後の事でなかった。
「ロイド?」
 名を呼ばれた当人は、寝台の枕に埋めた顔を微かに動かした。
 階下からは、ダイクに話し掛けるジーニアスとリフィル先生らしい声が聞こえる。それが何時もより殊更に明るく振る舞って聞こえるのは、気のせいでないだろう。
 枕元にそっと佇んだ幼馴染みの少女を見上げ、ロイドは呟くように問うた。
「もしかして、さっきの聞いてたか?」
 親子喧嘩、それも盛大に手まで出る類に鉢合わせたのなら、お互いに居心地が悪いだろう。そう感じながらも、湧かした茶が無駄にならずに済んだ、と他愛ない事を考えた自分の意識が可笑しくて、ロイドは密かに笑った。
 思ったほど、自分は打ち拉がれも、自棄になりもしていないらしい。
「えっと、ごめんね」
 直ぐに謝るのは、神子として育てられたコレットの癖だ。非がない限り堂々としていれば良いと思うロイドとは正反対だが、こうして彼女の謝辞を聞くと、少年の胸は痛んだ。
「……オレって格好悪ぃな」
 声は喉に絡んだ。
 約束破りを皮切りに養父の思いやりを退け、明日は遠地へ立つ友が訪ねて来たと言うのに不貞腐っている自分は、なんと情けない事だろう。
 けれどコレットは優しく微笑み、首を振った。
「そんなことないよ」
 本当に? と重ねて問うことをロイドはしなかった。だが応えることもなかった。こんな時こそ、彼女のように謝れば良いのかも知れなかったが、一度途切れた会話を修復する術をまだロイドは知らなかった。
 鷹揚な仕草でコレットは部屋を見渡した。部屋へ通すのは初めてでないが、大事な身の彼女が森を越えてわざわざロイドの家までやってくる機会は少なかったので、物珍しさもあるだろう。そういうロイドの方はと言えば、泥だらけになった格好でマナの血族の家に呼ばれて行くものだから、村長を筆頭とする村のかしましい大人たちの眉を顰めさせていた。
 何を話しているのか、床下から楽しそうな笑い声が上がった。始め幾らか不自然に感じた調子は、闇が深くなるのに反してだいぶ薄れている。
 意地を張らなければ、あの中に混ざっていたのかも知れない。けれど張ったのは子供の意固地でない。男の、そして養父の子としての沽券だ。
「ロイド、ベランダに出ない? 風が気持ち良いよ」
 沈黙を破り、彼女は外を指した。外気は気持ちを替えるのに良いし、戸のない続き部屋である二階より静かに話が出来る。
「そう、だな」
 同意し、緩慢な動きでロイドは立ち上がった。重く肩にのし掛かる頭をジーニアスが見れば、中身は軽く出来ているのにと揶揄しただろう。
 引き戸を開ければコレットの言う通り、涼しく迷いを吹き飛ばす風が部屋の中まで駆け抜けた。
 背をベランダの手摺りに預け、ロイドはすっかり陽の沈んだ空を仰いだ。星がひとつ、ふたつと輝き始める夜空の真中で、テセアラと呼ばれる月が浮いている。傍らに少女が寄り添い、ロイドの顔を見上げた。
 灯りは必要がなかった。二人の影は、月が照らし出す下で同じ円い形を作った。
 その時、ロイドは不意に振り返り階下を見下ろした。なにがどうしたと言うわけでない。ただ、視線が己の意思を持ってそちらに向いたのだ。
 薄暗い路を闇夜が通り過ぎて行ったように見えた。
「どしたの、ロイド」
 気のせいかも知れぬし、もし野の獣ならばノイシュが騒いでいる筈だ。
「いや、何でもない」
 ロイドは手を振り、その空いた手で伸びた後ろ毛を引っ張った。
 倣って手摺りに寄りかかり、今は夜空を映す瞳でロイドを見つめたコレットの表情は変わらず柔らかい。
 今度の謝罪は素直に口から出ていった。
「ごめんな。誕生日のプレゼント間に合わなくて」
 出来上がりさえすれば、一番の贈り物になる筈だとロイドは密かに思っている。思っているが、存在しなければそれは空論でしかない。
「いいよぉ、そんなの」
 コレットは笑おうとして、けれどその笑みを頬の奥に留めたようだった。悲しげな影が目元に落ちる。
 二度躊躇い、彼女は静かに希んだ。
「じゃあ、おめでとうって言ってくれる? 私が十六歳になれた記念に」
「あ、ああ」
 そんな事で良いのか、とロイドは少しばかりの疑問と不満を抱いた。ジーニアスだって大切な砂糖をふんだんに使った菓子を作ったし、家では目出度い旅立ちと合わせて沢山の品を貰った事だろう。叶うことならば、それらに見劣りしない贈り物がしたい。
 だが見返したコレットの表情は、彼女の希望こそがそれなのだと語っていたので、ロイドは大きく息を吸い込んだ。
「おめでとう」
 風が言葉を乗せて木立の中へ消えていった。
 恐らく今日一番の拙い贈り物だろうけれど、コレットの為にと思ったロイドの心が詰まっている。それで良いのだと言う証拠に、じっと胸に手をあて祝いの言葉を聞いていたコレットは嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがと」
 眦に薄く乗った光が、ロイドを心臓を掴んで揺らした。
「良かった。今日まで生きてこれて」
「何言ってんだ」
 ロイドは口速に言っていた。
 イセリアは確かに貧しく、時には干涸らびた芋の一つ二つしか食べられない日もあったが、神子を餓えさせた事はない。最大の脅威であるディザイアンとの間には、彼女を守るための不可侵条約が在る――これは、今日破られてしまったが。
「この後も生き抜いて世界を再生するんだろ」
 コレットこそが世界再生の希望なのだから。
「そだね」
 小さく頷いたコレットの髪が、夜風に遊んだ。