天の響

28:救助

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 虫が飛んでいる。
 小五月蠅い羽音が同じ調子で回っているのを払おうとして、彼は目を覚ました。
「――ここは……」
 意識を取り戻した瞬間右肩に痛みが走り、ロイドは明瞭な意識を取り戻した。
 彼がいたのは、薄暗い空洞のような部屋だった。四方形の手狭な空間に、荷箱のようなものが三つ。床や壁が宿す光沢は金属に似ていたが、鋼板だとすれば、余程巨大な竈で造られたに違いない。ロイドの眼は、接ぎ目を探し当てる事が出来なかった。手を伸ばしなぞった床は、研磨した石に触れたように滑った。
 虫と錯覚した低い振動音は、頭上の仕掛けから聞こえていた。それは羽に似た飾りだった。天上で回転する様は村の水車に似ているが、果たして何を挽いているのだろう。
 部屋の中に生命の気配は感じない。仰向けのまま視線を一周させて、ロイドはその場に在る者が自分だけである事を確認した。もっとも、ジーニアス達があのまま無事に逃げ延びたか、他の場所に捕らわれているかまでは判断が付かなかったけれど。
 そうだ、捕まっているのだ。
 己の境遇にロイドは深い溜息を吐き、知らず拳を作っていた左手の緊張を解した。
 記憶は途切れ途切れだが、ノイシュの背から放り出され、逆様になった視界の中に、あの独特の甲冑が見えた。ディザイアンの牧場は世界全域に存在する。どの地域かは分からないが、その内の一つに連れて来られたのだろう。思えば遠目に見たイセリアの人間牧場の建物も、こんな壁をしていなかったか。
 その先に考えることが思い当たらず、ロイドは天井を見上げた。静寂の中、羽仕掛けだけが回り続けている。
 暫くしてロイドは、扉の向こうから、微かな話し声と足音が近付いてくることに気付いた。規則的な足音が二つ重なることで、奇妙な変拍子を打つ。合間に入る切れ切れの言葉から、自分の名前が出たような気がする。
「なに……処刑?」
 冗談ではない。
 ロイドは痛みを堪え、素早く上体を起こした。身に着けていた武器は義父の木刀に至るまで取り上げられていたが、母の形見は手の平に宿っている。ならば、自分は決して屈しない。ロイドはそう思う。
 奴らには二度と、大切なものを渡したりしない。
 左足を後ろに軽く退き、ロイドは深く息を吸うと膝を曲げて身体を小さく畳んだ。斜めに倒れた上体の先、顔だけで覗き込むような格好で、出口を見据える。
 凝視した位置で足音が止まった。続けて扉の鍵を外す重い音。
 脳裏で合図の笛が、鳴る。
 ロイドは低く、身体ごとぶつかるようにして、扉の先、ディザイアン兵の懐に飛んだ。
 小部屋の囚人は未だ気絶しているものと油断していたのだろう。それは完全な不意打ちになった。叫び声が上がるよりも早く、左の拳を剥き出しの顎に叩き込む。相手が派手に転倒したのを追うようにして、ロイドも仮の牢獄を飛び出した。
 出た先は通路だった。白光に満ちた世界に、一瞬眼が瞬く。その隙が、呆気にとられた様子でいたもう一人のディザイアン兵に自身を取り戻させる暇を作った。
「脱走だ!」
 手を伸ばし壁のくぼみを押す。それが何かの仕掛けだったのか、通路中に警鐘に似る甲高い音が響いた。
 音が四方からロイドを打ち叩く。その合間を縫って、鞭が打ち据えられた。
 攻撃に反応して、と言うよりただ驚く形で身体が動いた。危ういところで身体を捻る。不自然な形で動かした右腕の付け根が痛み、意識に寄らず膝が落ちた。耳の脇を鞭が切り裂き、空気の上を熱が走った。
 咄嗟に床上を探った指先が、丁度剣の柄程度の硬い物にぶつかる。
 生憎、剣ではなかった。先に倒したディザイアン兵の手から零れ落ちたらしいそれは、鉄の柄に形ばかり大仰な槍先が付けられた、奇妙な武器だ。無手より善か。ロイドは掴んだそれを上方に突き出す。
 同時に振るわれたディザイアンの鞭が巻き付き、ぴんと張り詰めた。両者の動きが止まり、鳶色の瞳と甲の下に隠された顔が直線で結ばれる。
 その時一瞬の勘で、ロイドの親指は柄にある竜頭のような仕掛けを押した。身震いするように振動し、耳の奥まで空気が弾け飛ぶ音がした。青い閃光が先端から飛び出していく――
「ぎゃあああッ!」
 人の悲鳴であることが、初めは分からなかった。
 ディザイアン兵が顔を――露出した鼻から顎の辺りを押さえて二、三歩蹌踉めき、その場にばたりと昏倒した。指の隙間から垣間見えた皮膚が、焼け爛れていた。
 未だ、鈍い振動の気配が手の平に残っている。穂先から弾け飛んだ、あの帯電した閃光が引き起こした結果であることは明白だった。
 もともと槍として使うのではなく、稲妻を生み出す武器だったらしい。
 ロイドは立ち上がると、無人のまま警鐘を鳴らし続ける仕掛けを見据えた。今度は冷静に、意識して引金を引く。派手な音が鼓膜を叩き、壁を抉った。
 ――鳴り止まない。
「くそっ」
 悪態を吐いても状況が変わるわけでない。ロイドは兎に角走り出した。
 長い通路を走る。警鐘は鳴り続けているが、ディザイアンとて無尽に存在するわけでない。最初の角は人通りのない事を確かめながら慎重に、その次は少し大胆に曲がる。
 しかし幸運は三度目の角で尽きた。先を覗こうと角から顔を出した一瞬、兜だけで宙に浮く一つ目のお化けがロイドを見据えた。まずい――!
「貴様、こんなところに!」
 怒声を、ロイドは背で聞いた。
 武装したディザイアン達に足で負けるつもりはない。しかし呼び掛けに応えて他の通路から次第に足音が近付いてくる。既に進んでいるのか、戻っているのかも定かでない。
 ふと、通路に並ぶ扉の一つに視線が向き、藁に縋るつもりで伸ばしたロイドの手は宙を滑った。
 扉は人の手に寄らず左右に退き、部屋へ転がり込んだロイドの背後で扉が閉ざされる。直後、通路を駆け行く複数の足音がし、やがて沈黙が戻った。
 危なかった。
 硬く縮み上がっていた内蔵が緩やかに本来の位置へ落ちてくる。全身から吐き出した安堵の溜息に、その時、本を閉じる軽い音が被さった。
 慌てて身体全体で振り返り、ロイドはそこに自分以外の人が居たことを知った。
 線象嵌が施された重厚な机の上に書物を置いた、それは紺瑠璃の硝子に似た男であった。青藍の瞳が、どこか不機嫌そうな所作で見据えてくる。
「何者だ?」
 ロイドは槍の鋒先をその応えとした。