天の響

34:砂漠

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 扉の音に意識が向いた。自分が立てたものではあり得なかった。個室を分けるのは帳であり、ロイドの背後に板戸はない。反射的に視線を向けたとば口は、濃紺の影を飲み込み閉ざされた。
 ──クラトス?
 確証はなく、しかし垣間見えた後ろ姿は確かに彼だと、ロイドを確信させた。
 こんな夜更けに何処へ行くのだろう。疑問が肩を推し、つられて足が動いた。押し開けた扉の先は、イセリアで見知った表情とまるで違う、しんと静まり返った砂漠の夜に繋がっていた。
 ロイドの顔は自然と天を向いた。
 遮るものなく広がった満天の星。伸ばしても届かない手の先で、空の金剛石が煌めいている。幼い時から比べれば近付いたものの、まだ、星は遠い。
 視線を地上に戻し周囲を見渡すと、クラトスはすぐに見つかった。宿の前の竜舎で、そこに繋がれたノイシュに何事か囁き首筋を撫でている。背を向けているためクラトスの表情は分からなかったが、ノイシュの方は全く警戒心のない様子で身を預けている。
 一瞬驚いたが、あの寡黙な傭兵がノイシュと戯れている姿に少しばかり悪戯心が湧いて、ロイドは足を忍ばせ彼の背後に近付いた。途端──
「!」
 銀の光が宙を走った。理解するより先に身体が竦み上がる。褐色の瞳が搗ち合った刹那、刃は喉頸に触れて止まっていた。
「ロイド、か」
 低い囁きを残し、傭兵は剣を引いた。
「私の背後には立たない方がいい」
 悪戯を責めることはなく、ただ、命の保障はしない、と彼は続けた。
 事実だ、と悟りロイドはぞっとした。剣を抜く挙動はおろか、傭兵が振り向いたことすら知覚出来なかった。そんな技量で、避けてみせると言えるほど愚かではない。ロイドを認めなければ、躊躇うことなく刃は首を断っていた。
 喉を潤そうと思っても唾液すら乾ききり、空気がざらりと落ちていく感触があるだけだった。
「そうする」
 ロイドは俯き、竜舎に向き直ったクラトスの横に並び立った。
 ノイシュは消沈した主人の様子に一度首を傾げたが、無表情な傭兵のなにに惹かれるのか、飽きもせずクラトスを見上げた。翠の尾がゆらゆらと揺れるのを眺めている内に、やがて同じ拍子でロイドの鼓動も刻まれる。
 落ち着いてみると、クラトスに向けられる信頼の瞳が気になった。
 臆病だと揶揄してしまうこともあるほど、ノイシュは警戒心が強い。今よりもう一回り小さかったジーニアスにでさえ、はじめは近付こうとしなかったのだ。そのノイシュが、一日砂漠の道を共にしただけで、これほど気安く身を寄せるだろうか。
 思い付くままに、ロイドは問うていた。
「あんた、動物が好きなのか?」
「いや、別に」
 答える言の語気は決して強くなかったが、続く言葉を断った。
 虫の音もない砂漠の夜が沈滞する。会話なく並び立つことに、不思議と苦痛はなかったが、気詰まりがあった。あるいは、沈黙の会話を交わすクラトスとノイシュに対し、己の方こそ邪魔者であるのか。
 暫くの間があって、クラトスが口を開いた。
「私も昔、動物を飼っていたことがある」
 熟考する事なくロイドは相槌を打った。
「へえ」
 会話が再び途絶えた。冷え込んだ夜の風が二人の間を吹き抜けていく。ロイドは己の失敗を悟り項垂れた。所在なく浮いた手が支えを求めて腰の辺りを彷徨い、しかし目当ての物を得ることなく下がった。
 剣はない。
「あんたの剣、なくしちまった」
 思い出した事実をロイドは後ろめたい気持ちで告白したのだが、クラトスの方は何を指しているのか思い当たらなかったらしく目を細めた。
「ディザイアンの奴らに捕まった時、取られたみたいだ」
 借り物を失くした申し訳なさの奥に、もう一つ、違う心がある。
「もとより、あれはお前にやったつもりだった。気にするな」
 許され、ロイドは安堵した。
 マーブルの血に塗れた剣は重かった。血払いせず収めた鞘の中には錆の臭いが付き、研いだ後も当初の輝きは失われて見えた。
 もうあの剣が己を苛むことはない。
「しかし、これからの旅はどうするつもりだ? 私は神子の護衛であって、お前のお守りまでしてやれんぞ」
「分かってるって! 馬鹿にするなよ」
 出立前に剣を買い自分で戦う、と答えはしたが、その為にはリフィルに資金を借りねばならないだろう。
「そうか」
 そうだ、また剣を持つのだ。人──ディザイアンを斬ることもあるだろう。出来るだろうか。
 ロイドは己の手に視線を落とした。
 思い起こすのは、怪物と化したマーブルを斬ったその時の感触だった。人の肉の間を裂いた剣の手応えは、野の獣を狩る剣と差異なかった。獣の死は、シルヴァラントの子供にとってある程度慣れた知覚である。必要があれば皮を剥ぎ、爪を刳り貫き、肉を食べる。多かれ少なかれ生物は他者の生を奪って生きている。ゆえに、その感触自体は恐れるものでないと知っている。人を殺すことも、獣と違いなかった。違いがなかったからこそ、ロイドは恐怖を覚えたのだ。
「今日はもう遅い。休むのだな」
「なあ!」
 宿へ向かおうとしたクラトスを思わず呼び止めた。
「あんた、傭兵だろ。人を殺すことに……」
 逡巡し口籠ったロイドを見下ろし、彼は低い声で言葉を紡いだ。
「相手にも命がある。剣を持ち、敵を倒すと言うことは、その命を背負うことだ。それを忘れるな」
 死んだマーブルが過去に何を望んでいたとしても、もう為し得ることはない。代わりに出来ることがあれば遂げてやりたかったが、ロイドにはそれも分からない。せめて、彼女の祈りに応えて世界再生を成功させることが、その命の重さに応えることになるだろうか。
 不意に気が付き、ロイドは瞠目した。
 幼馴染の少女は彼の分も荷を背負おうとしてくれたのだ。
「わかった」
 戦わないという選択肢はロイドにない。
 悪鬼ディザイアンが跋扈するこのシルヴァラントでは、戦わないことは生きることを放棄する意味と等しい。それは命を懸けて自分を守ってくれた母と、ここまで育ててくれた養父の愛情を無為にする。
「いや、わかったっていうのは嘘かな……でも、もう、剣を振った責任から逃げない。誓うよ」
 命を背負う。ロイドはもう一度心の中で繰り返した。
 無意識に握り締めた左手の甲で、エクスフィアが星を映して煌めいた。