天の響

35:熱砂

フォント調整 ADJUST △ - ▽

 ロイドは項垂れ、重い息を吐き出した。
「あちー……」
 砂上は鍛冶場の火床に似た熱さであった。ドワーフは火を扱う種族だ。その子であるロイドも、幼少から火を身近に置いて育った。ゆえに、並の暑気であれば耐える自信があったが、砂漠の熱は少年の想像を遥かに超えていた。
 艱難は暑さばかりでない。砂の大地は陽で満ちて黄金に輝き、その眩さが眼を刺した。自然、目は窄まり光を拒もうとする。拍子に脳裏へ忍び寄る影があり、ふと気が付いた瞬間には、不自然に傾いた身体の動きに握る端綱が大きく揺れ、竜が嘶いていた。
 漫ろ気な引き手に不満を示すように、竜はふーと低く、溜め息のように聞こえる鼻息を吐く。
「悪かったって」
 オアシスで借り受けた三頭の竜が、今日は一行の足となって砂漠の道を進んでいた。但しクラトスの指示で、竜を歩かせる間は、人も自身の足で歩く。昼夜を駆け通せるのは英雄譚の竜だけだ。
 ノイシュへするように喉元を撫でようと右手を挙げ、ふとロイドは躊躇った。竜の逆鱗とは、果たしてどの辺りを指すのだったか。
 宙で彷徨った手が着地点に選んだのは鼻だった。手袋越しに、奇妙に柔らかい感触が伝わる。
「わ、お前汚いなー!」
 驚いて引いた手の平と竜の鼻先が繋がっていた。咄嗟に上着の裾で拭ったロイドを、年下の親友が咎める。
「ロイド、汚いよ」
 頬に乗せていた苦笑は、唇を突き出した拍子に端から零れてしまった。気を取り直して前へ進もうにも、瞳を刺す眩い光が瞼を閉じようとするのはいかんともし難い。
 ノームの引力が瞼に強く影響する原因は、陽ばかりでなかった。出立は早いと告げられていた通り、眠りは陽の昇らぬ内に破られた。澄んだ夜明けの砂漠を竜に乗り駆け始めた当初は、沸き上がる高揚感が意識を支えたが、平坦な道程が続けばそれも薄れる。足りぬ夜の誘惑は魅惑的であった。もっとも、眠りの充足量を言うならば、ディザイアンに捕まった時に眠らされていた分を足し合わせれば、ちょうど適当な量になるのかも知れない。嬉しくない計算だったが。
「ロイド、だいじょぶ? やっぱり交代しよう?」
 もう一つの声は、まるで旅人を労る小雨のように頭上から聞こえた。振り仰いだコレットは、ノイシュの背に膝を揃えて座り、白い靴を揺らしていた。
 大丈夫だ──応えようとしたその時、穏やかな空気を鞘走りが断った。竜が咆哮し、端綱が掌をすり抜ける。
 一呼吸遅れて、ロイドも気が付いた。
 魔物!
 狼に似た四つ足の獣が二匹、砂丘の陰から飛び出し一行に飛び掛かってきた。
「剣を抜け!」
 クラトスの指示に慌てて剣を抜いた。照り付ける日差しを映し、刀身がぎらりと輝く。同時に砂を蹴り、一方の前に飛び出したロイドはその勢いのまま右手を大きく振るった。イセリアの森で野犬を相手に培った必殺の間合いだ――がっと言う鈍い音を立てて、刃が阻まれた。鋼を噛み切らん強さで白刃に牙を立て、剥いた眼は興奮に爛と輝いている。
 ロイドの意識は落ち着いていた。魔物は知らないが、しかし、彼の得物は二降りあるのだ。
 左手に強く握りしめた剣を腰の位置で払う。その切っ先は間合いに届かず、魔物の鼻筋を浅く切った程度だ。
 それで充分だった。
 ぎゃっと悲鳴を上げ、剣を押さえ込んでいた牙が緩む。その瞬間を見逃すことなく、ロイドは握り直した剣を右腕ごと深く突き出した。鋭い切っ先が薄い肉を貫き、びく、とその奥の臓器が痙攣した感触が掌に残った。
「――どうだ!」
 荒い息を飲み込むと、ロイドは魔物の体から引き抜いた剣を大きく円を描くように振るい、その切っ先を宙で静止させた。
 今日よりロイドの得物となった二降りの剣は、出立の前に行商から買い受けた物である。業物ではないが、駆け出し剣士の身の丈に合う癖のない細身剣だった。但しロイドとしては不満もある。彼自身は、英雄譚の剣士が振るうような長剣に目を付けていたのだ。だが、握りが良く重心が型に合う剣を選ぶようにとクラトスから指南があり、その上代価を払ってくれると言うので、ロイドなりに遠慮し傭兵が良いと言う剣を選んだのが真相だった。
 それにしても変な奴、とロイドは首を捻った。傭兵と言うからには、稼ぐ為に戦っているのだろうに。
 当のクラトスは、向けた剣先の向こう側で、疾うに切り伏せたもう一匹の魔物の傍らに立ち、来た道を見つめている。その視線の先を追って、ロイドも背後を振り返った。
「あれ?」
 血の臭いに興奮した竜たちをリフィルが宥めている。だが、その中にノイシュの姿はない。
 若草色の兄弟は、背にコレットを乗せたまま何処へ行っていたのか、大きな図体を少しだけ小さくして、小走りに一行の輪に戻ってくる所だった。
「また逃げ出しやがったな」
 魔物を感知した一瞬の内に身を隠したのだろうが、飼い主たるロイドも半ば呆れ、半ば感心する相変わらずの逃げ足である。
 両手を宙に挙げる独特の癖でジーニアスが肩を竦めた。
「ほんと、臆病だよね」
「魔物に敏感なのだろう」
 前触れなく傭兵の言葉が割って入り、二人の口を封じた。思いがけぬ優しさであった。それどころか、低い声に労るような響きも感じられ、子供たちは顔を見合わせた。
 次いで、男は眼差しをロイドへ滑らせた。
「お前は太刀筋が粗い。もう少し隙をなくすよう心掛けるのだな」
 少し腕が立つと思って――憤慨して、ふいにロイドは自問した。
 少し?
 進んで認めるのは癪だったが、傭兵と己の力量差は、このシルヴァラントの大地と空の月テセアラの距離に等しいほど明白だと、ロイドは知っていた。
 むっとした気持ちを、鞘の中に押し込める。それから腹の底に溜まった空気を吐き出すと、忘れていた暑さが蘇った。首筋に汗が噴き出す。これほど全身が濡れているのだから、少しは涼しくなっても良さそうなものを。
「……砂漠には飽き飽きだぜ」
 気を取り直そうと進路へ改めて向き直ったその時、視界の隅に影が映りロイドは目を擦った。
 遙か砂塵の先、地平線に近い低い位置で幻のように揺らめくものがあった。
「先生!」
 指差してリフィルを呼ぶ。聡明なエルフは、太陽の位置と地図を見比べると、確かに一つ頷いた。
「恐らく、あれが旧トリエット跡ね。この先は竜に頑張って貰いましょう」
 その言葉に、ロイドは歓声こそ堪えたものの、直ぐに竜へ走り寄りあぶみに足を掛けた。跨がれば、ほんの少しだけ暑さが和らいだような錯覚がある。竜の背から見通した先には、石を積み上げた跡のような、砂の色と異なる色が見えた。
 目指しているのは、南西にかつて存在したと言うオアシスの跡だ。女神と共に眠りについた精霊イフリートの座す地、そしてかつて再生の神子が訪れ儀式を行ったと言う逸話から、これが天使の告げた火の封印だろうと大人たちは話していた。
 封印の地を回る事で、再生の旅は進み、世界の救いが近付いていく。
「よし、行くぜ!」
 号令に従って竜たちとノイシュが揃って駆け出し、一行は風の中に飛び込んで行った。
 目的の地まで、あと僅か。