天の響

Jesu, Joy of Man's Desiring 1

フォント調整 ADJUST △ - ▽

 ほんの数刻で良い。休もう。
 そう言い出したのが誰だったかは分からないが、何かと不平を零しつつも全員が同意したところを見ると、それは共通した意見だったのだろう。
 敵地からの脱出、予想外の襲撃、裏切り、そして続けざまの死闘と、根源の精霊との契約。駆け足に進み過ぎた。満足な休息を取れなかった身体には限界が来る。その上、マナの密度から空気の質まで違う敵地たる彗星上を駆けたのだ。今度こそすべてが終わるのだろう最後の局面に向け、一呼吸つきたい、と思ったのは当然と言えた。
 此処までくれば玉座までは一息。そして予想より遅いデリス・カーラーンの離星速度のお陰で、未だ、少しばかりの猶予はある。
 勝手知ったる者の案内で、天使たちの居ない回廊の間に在る一室を占拠した一行は、こうして貯まりきった疲れを吐き出すことになったのだった。
 続きの間に在った寝台に子供たちは寄り添うようにして、ある程度年上だと自覚している大人たちはソファや毛布にくるまった状態で横になる。
 そんな中、一人──クラトス・アウリオンは警戒の為、剣を手に部屋を戻った。此処は幹部のみに許された部屋だ。新たな命令を発する頭を失った現在、忠実なる天使たちが侵入してくる事はないだろう。しかし、楽観視する気にもならない。
 窓のない部屋の中は、薄暗い蒼い照明に照らされ、恐ろしいほど静かだった。
 意外にも、そこには呼吸する生きた者がクラトスの他にもいた。長椅子に座る小さな身体よりも先に見えたのは、鋭い斧の先。
 照らし出され青く光ったプレセア・コンバティールの瞳が、傍らに腰を下ろしたクラトスに一瞬向けられ、そしてまた廊下へ続く扉を見据える。一行の中で最年少の一人である少女は、見掛けとは裏腹に思慮深い眼を持っていた。そもそも彼女は子供でないと言える。しかし身体は紛れもなく発育途上のそれで、番を務めようと言う考えを、残念ながら彼女自身の肉体が裏切っているようだった。
 疲れているならば、今は何も考えず眠れば良い。
 心の中で呟いた言葉に、彼女は正しく応えた。立ち上がるとクラトスに目礼を残し、ゆっくりと奥部屋に足を向ける。
 だが小さな足音は数歩で止まった。
「ミトスは、あなたの事は信頼していたのですね」
 背中合わせに掛けられた静かな声にクラトスは瞠目した。
 話を振られるとすれば、それは自分が愛した女性とも繋がるハイエクスフィアの研究についてだろうと、何処かで確信していた為に、彼女から漏らされた旧友の名は不意打ちだった。
 思えば愚かな事だ。
 聡い女性である彼女は、同時に酷く孤独を感じているようだった。それもその筈、ハイエクスフィアの研究に利用された為に時の流れから取り残され、家族を失い、そして理不尽な天の裁きにより故郷も失った。
 だから彼女がミトスの孤独に気付かない筈がなかったのだ。
「なのに人間は信用出来なかった……」
 そしてかつての仲間からも離れ、独り世界と戦い続けている。
 彼の孤独を想うと、クラトスは嘆息せずにいられなかった。その孤独を生み出した責は自分にもある。裏切られたと──恨まれるのは覚悟していた。けれど精神体になった彼に、自分を理解していなかったのだと詰られた時には辛かった。勝手な話だが、ミトスを憎く思った事はない。
「そうだな……それは、私の力が足りなかったのかも知れぬ」
 個人であるクラトス・アウリオンに置ける信を、人間と言う種族にまで深めさせる事が出来なかった。人として唯一彼に受け入れられた者として、それが果たせなかった事が口惜しい。
「何でも自分のせいにしてしまうんですね」
 プレセアの調子には、何処か哀れみのようなものが混じっていた。
「後悔ですか?」
 そうなのだろうか。自問し、クラトスは口唇を開いたが、そこからは何の音も出なかった。
 不自然な沈黙が途端に重苦しくのし掛かり、ただでさえ澱んだ部屋の空気を息苦しくさせる。錯覚だが、そう思った。
 彼女は本当に聡い女性だった。
「すみません」
 言い過ぎたと思ったのだろう。彼女は謝罪して、場を後にしようとした。その気配を反射的に引き留める。
「──いや」
 言っておかねばならない、と思った。
「後悔は、ない」
 後悔していたら、もう剣は振るえない。後悔を胸に戦うなど、それこそ彼を侮辱することになってしまう。
 間違った選択は沢山繰り返された。それでも生きて辿ったその道は消せない。消したくもない。あの日あの時あの瞬間、選んだ自分の気持ちに嘘は付けないのだから。
「あれもきっと同じ事を言うだろう」
 他人の事を確信を持って断言するなど、自分自身のことすら正しくは分からない者が言うには過ぎていたが、これは誰にも譲れない、かつてミトスの同志であった男として確かに宣言出来る唯一のことだった。
 薄闇の中で彼女が頷き、空気が動いた。
「そうですか。良かった……」
「プレセア?」
 吐息に等しい最後の言葉を浚う形で、奥の部屋から微かな呼び掛けが聞こえた。変声を向かえる前の、少年期独特の高い澄んだ声。もう一人の最年少者である銀の少年が、少女の不在に気付いたらしい。ぺたり、と濡れた足音がして彼がこちらの部屋を覗き込んだようだった。
「今、行きます」
 小さな手が斧を握り直し、足音が遠離って行く。そして天使として強化された聴力でもそれが聞き取れなくなった時、彼女を追い掛けるでもなく、少年はまだ背後に立っていた。
 背中が感じる視線の強さに、寝てはどうかと声を掛けるのも躊躇われ、クラトスは柄頭に添えた自分の指先に視線を落とし続けた。少年も言葉はなく、しかし立ち去る気配もなく其処に居た。
 彼、ジーニアス・セイジの存在はロイドとは別の意味でミトスを思い起こさせた。
 幼いハーフエルフであり、ただ一人の家族として姉を持ち、まだ純粋に世界と向き合っていた当時の彼。ミトス本人も彼に自分と同じ境遇を見出し、だからこそともだちになったのかも知れない。
 そう、彼らはともだちだった。自分たちもまた友だとは思うが、それ以前に自分たちの関係は仲間であり同志だった。ミトスにとって極普通の友人とは、長過ぎる歳月の内に一人しかいないのだ。
 その存在はミトスの救いになっただろうか。
「クラトスさん」
 漸くジーニアスが口を開いたのは、四半刻も過ぎてからだった。
 かつての旅路で幼馴染みたちとはしゃいでいた、あの頃から彼は成長したのだろうか。元々聡明な色を宿していた声音には、また一つ経験を積んだ者らしい響きがあった。
「あなたはロイドを選んだんだ。だからもう迷わないで」
 唐突な言葉にも思えたが、直ぐに合点がいった。先程の会話が聞こえていたのだろう。
 宣言通り、後悔はない。しかし迷うなと言う少年の懇願を聞くのは難しかった。当然だ。四千年間変わらなかった物が、この一年足らずで大きく動いた。戸惑いがある。そして待ち望んだ時を迎える畏れも。
「そうしないとミトスが可哀相だ」
 嗚呼、友とはこういうものか。想い、クラトスは声を漏らした。
「すまない」
「謝らないでってば!」
 その瞬間、少年の小さな体の何処にそんな力があるのかと不思議に思うほど爆発的に大きな声が発せられ、クラトスの謝罪を蒼い闇の中に吹き飛ばした。高い音階の叫びが部屋の中で丸く響く。誰しも持つ退けない一線を守ろうと、彼は全力で反抗した。
 しかし直ぐ奥で眠っている筈の者たちの事を思い出したのだろう。些か早口に続けられた言葉は密やかだった。
「謝ったら、嘘になるよ」
 自分がそうしてしまっていたと認める事になるから。
「ああ……そうだな。そうだったな」
 最近の自分は子供に諭されてばかりいる。その事に思わずクラトスは唇の端を歪めた。しかし不快ではない。
 子供こそが、真理に近いのではないだろうか。
 やがてジーニアスは静かに宣言した。静かに決意を込めたその声は、年齢からすると大人びて聞こる。
「僕は、ともだちを止めに行く」
 確かにそれが許されるのはジーニアス唯一人に違いない。
 共に行こうと伸ばされた小さな手のことをクラトスはふと思い出した。あの手は何処にいったのか。
 自分は友を止められなかった、救えなかった。
 けれどそれを嘆いて放棄したのも自分自身だった。差し出された手は、或いは未だその場に残されていたのかも知れないのに。
 その思考を断ち切る呼吸で続けられた言葉は微かに鼻に掛かっていたが、それ以上に堂々としたものだった。
「間違った時は、それを止めるのがともだちの役目だからね」
 何時でもその場には結果だけがあり、先に踏み出すには次の行動を決めるしかないのだ。
 不意にクラトスは、真実彼がミトスの友であったのだと理解出来た。この旅路も、きっと彼にあの暖かな日々に戻って欲しくて走っているのだ。
 それを知った以上、ミトスとは落ち着いて対峙出来そうだと思う。自分の役目ではなくなってしまったけれど、心から彼を認めぶつかっていく真実の友が居るのだから。
「お前は賢いな」
 自らの信念を打ち破る事になるその聡明さを、ミトスも愛した事だろう。
 息を吐く。空気が揺れ動いたその動作で、二人はお互いの意が通じ合った事を確信した。
「これからも、ロイドを頼む」
 血の繋がった家族として我が子の為にそれを望み、口にするのは酷く愚かしい事かも知れない。だが。
「当然でしょ。親友なんだから」
 誇らしい想いを込めた言葉を残し、ジーニアスの気配が歩み去った。そしてクラトスは夜に似た静寂の中に一人残された。

2004/01/04 初出