天の響

Jesu, Joy of Man's Desiring 2

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 前を見据えたクラトスの背後で空気が動いた。鋭く意識を向ければ、其処に先程の少年と近しいマナを知覚出来る。
「素晴らしい蔵書だわ」
 様々な表紙の本が室内に備えた書架に並んでいた。整然としているが、何処か寂しい。
 無機生命体の住まう星デリス・カーラーンに本来書物などない。一部はクルシスが民草から知を奪うため取り集めた古書、残りの大半は余りに長き退屈を凌ぐ為クラトスやユアンが取り寄せたものだ。当然大半はそこに鎮座し何時しか忘れ去られた。
 しかし書物と、知的欲求を持つ者にとって幸いだった事に、ウィルガイアは不必要な湿気も日光もない。その御陰で地上では眼にする事の叶わぬ書物が未だ残っているのだ。
 秘められた知識達を前にリフィル・セイジが切なくも聞こえる吐息を零した。
「持って帰りたいところだけれど……いけないわよね」
 彼女が興味を惹かれるような書となると、人目に触れれば徒に世間を騒がす結果に為り得る。それは指摘するまでもない事だった。ゆえに彼女は愛しい知識達の背を指で辿り、そこから先に進もうとする想いを押し止めているようだった。
 暫く二つの密やかな息遣いだけが室内に満ちた。
「時間は、まだあるのね」
 話題は唐突に変わったが、クラトスは自然とそれを受け入れた。
 こうして休むことが出来るのは、自分たちの行動が迅速だったからと言うより、思いの外クルシスの対応が遅かった為に他ならない。
 天使達は、命令された事しか為せないのだ。
「正直助かるわ──でも」
 言葉は曖昧に途切れ、それからリフィルは顔をクラトスの方へ向けたようだった。空気が揺れ、声が少しだけ近くに移る。
「これも罠かしら」
 心の間隙を突くあの仕掛けのように。
 クラトスは答えを持たなかった。ヴェントヘイムはミトスの支配領域だ。そしてクラトスは、最早彼に迎え入れられる存在でなくなった。確実に分かっているのはそれだけなのだ。
「しかし休まないわけにもいくまい。お前たちは紛れもなく人間、そしてハーフエルフなのだからな」
 虚ろな城を守護する天使達は疲労と言うものを知らなかったが、対峙する一行はそうもいかぬ──今更確認するまでもないつまらない事実に彼女は頷いて、そして微笑んだようだった。
「だからこそ私たちは此処まで来れたのだわ。そうではなくて?」
 疑問符を伴ってはいたが、彼女が同意を求めているのでない事はよく分かった。
「強いな」
 それは素直な感嘆だった。
 人は己より優れた種を羨んだ。天使を、エルフを、そしてハーフエルフを。与えられた分に胸を張る者達など、クラトスの長き生においても数える程しか知らない。だが今リフィルは、種として至上である天使を否定し、自分たちだからこそ成し得るのだと口にした。
 同じ事はロイドも、コレットも言う。だが今この場で銀色の女性が口にする以上の重みをクラトスは知らない。
「限りある命を燃やしているのだもの、当然でしょう」
 虐げられ泥水を啜っていた種族の末に、これほど誇りを胸に進める者が生まれるとは、何と言う奇蹟だろう。自分たちが過去望んでいたのは、これでなかったか。
 言葉を失い、クラトスは溢れる想いを秘めるため口を塞いだ。
「苛めが過ぎたかしら」
「……いや」
 今の彼女の心の水面は波一つない静かなものだった。些末な事で揺れる事もないのだろう。
 その強さはクラトスに伝播した。
 感謝したいほどだった。
 短い否定の言葉からそれを読みとった利口な女は、もう一度空気を笑ませた。闇の中で白い花が綻ぶ様を想像し、振り返っていなかった事をふと残念に思う。
「もう少し眠らせて貰うわ」
 書架から手を離し、彼女は結局クラトスと顔を合わせる事がないまま、奥の部屋へ戻る。
「冷えるわね」
 その言葉通り、彼女が立ち去った後は確かに空気が冷たさを強めたようだった。無機化した身では体感温度などさして変わらないが、そっと息を吐き出せば微かに白いものが一瞬浮かび、霧散した。
 だが身体を包み込む静寂の闇は心地よい。
 もう一度唇が開き、今度は音を伴って出ていった。
「眠らずに、良いのか」
 クラトスはやはり振り返る事もなく背後の娘を確認していた。足音もなく忍び入るようにして現れたのは、ミズホの里の藤林しいなだ。
「見くびるんじゃないよ」
 低く落とされた声が唇の先で笑うように言い、しいなは大きく円を描いて部屋を回ると最後にクラトスの前で立ち止まった。腰に巻いた長い帯が宙で紅を引く。
「これでも忍の里で修行を積んでるんだ。短時間ずつの睡眠で充分サ」
 ミズホの民は独自の生活を守る為、テセアラの王侯貴族に取り入り様々な闇の活動をしていた。ロイド達が世話になった諜報活動等はそのほんの表層に過ぎない。どのような任務に就いても足りるよう、必要睡眠量を減らせるような、或いは不寝番が出来る訓練を受けているのだろう。顧みればトリエットの砂漠やフラノールの雪下と言った常と違う状況下でも、彼女が不平以外の何か──汗や悴んで動かぬ指等を見せた事はない。
 しかし技術は持ちながらも非情になり切れぬ忍の娘は、薄闇の中でふと肩を竦めてみせた。仕草一つを取っても彼女は表情豊かだ。
「アンタの方こそ眠ったらどうだい?」
 手を腰に当て軽く上体を傾けたしいなへ、クラトスは漸く視線をやった。
 つまり彼女は決戦を前に気を利かせてくれているのだと、今更ながら実感する。
「私に眠りは不要だ」
 天使化した身体は、人として必要な栄養も休息もなしに体内の機能を維持する事が出来る。言ってみたものの、再生の旅にも同行した彼女がそれを失念したとも思えなかった。無論、神子が眠れなくなった現象とはそもそもの意味が違うが、そこまで説明する必要もない。
 案の定、しいなは納得しなかったらしい。
「そうは言ってもねぇ」
 探るような視線が見付けようとしているのは、一体何だろう。まさかこの局面に来て裏切りを懸念されている訳でもあるまい。
 仕方なくクラトスは吐露した。
 否、彼女と自分は先の罠で互いの心の闇を露呈したのだ。偽りを並べたところで何になろう。
「眠るよりも、今は考えたいのだ」
 四千年の旅の終わりまであと僅か。これまで過ごした年月に比べれば余りに短い時間だが、それを眠って過ごす等出来そうもなかった。
「なんだい。アンタみたいな奴でも怖気付く事があんのかい」
 漸く得心いったように頷くしいなの姿に、そうなのだろうかとクラトスは自問した。
 自分は怖じ気付いているように見えるだろうか。待ち望んだ時の到来に。それとも、かつての同志を今度こそ本当に失う事となる行為に。
 ミトスと対峙して──止めをこの手で?
 成程、それは背筋が震える想像だった。命の責任を負うと言うのは。だが自分がこれまで累積してきたそれを思えば、怖じ気付き立ち止まってなどいられない。
 湿り気のない笑い声が上がった。
「しょうがないねぇ」
 仕方がない、と言っておきながらその表情は至極穏やかなものだった。
 何かを諦めるのでなく、許容し自分なりに変えていく力を彼女も得たのだろう。
「喝入れてもらおうと思ったのにサ」
 それが何処まで本当なのかは分からなかった。そしてそれは然したる問題でもないのだと、両腕と背を高く伸ばす動作をして、彼女はやはり忍としては明るすぎる笑みを濃くした。
「アンタじゃなくて、ロイドに期待するよ」
「賢明だな」
 そう応えたのは本心だったのだが。
「相変わらず嫌味な男だねぇ」
 肩の先で僅かに彼女は笑い、爪先で素早く背を向けた。
 それが顔を隠すためだと分かったのは、その後に続けられた声でだ。
「──でも、さっきの罠」
 彼女もまたデリスエンブレムの仕掛けを口にした。心の弱さを突く罠に陥り二人闇の中を駆けたそれを。
「アンタが一緒にいて、心強かったよ」
 しいながどんな表情を浮かべたのか、それは分からなかった。分からなくて良いと、クラトスは思った。それを知るのは自分の役割でないのだから。
「さて、アンタが良いならあたしはもう一眠りさせて貰うよ」
 声の調子を変えると、彼女はそのまま静寂の中に腰帯を靡かせ去った。
 そしてまた一人、クラトスは同じ場所に座り続けた。

2004/06/18 初出