白い布を風に乗せ、ロイドは降る道の途中から歓声を響かせた。数歩分遅れ、半ば転がりながらジーニアスが続く。前を進んでいた二人を危ういところで躱し、出口まで思い切り駆ける。濃紫のマントの横を過ぎた瞬間、眉を顰めただろう傭兵の表情がやけにはっきりと頭に浮かんだ。
固い石床を叩くように走れば、高い天井まで音が響く。魔物たちも余りの騒々しさに棲処へ帰ったのだろう。遮る物がない道を深呼吸三回分ほどの早さで通り抜け、出口に臨む所でロイドの足は漸く止まった。思いも寄らぬ人影があったからだ。
追い付いたジーニアスが、あ、と声を上げた。
「姉さん!」
呼び声に屈めていた腰が持ち上がり、振り返ったのは確かに彼等が良く知る女性であった。
「リフィル先生」
イセリアに居を構えるエルフ族の女性、リフィルはロイドら村の子供達の学術の師である。未だ若い――と言っても「女神さまでも分からぬものは、恋の行方にエルフの年齢」と唄われるくらいだから、彼女が自己申告した数えて23と言う年齢の真偽を村の誰も知らないが、恐らく本当の事だろうとロイドは思っている。
外見の美しさも内面から輝く毅然とした性格も、養父が言う所に従えば銀細工にぴったり似合いの若さだからだ。
しかし本人は飾り立てるどころか、好んで男物の服を着ているのだから、些か変わっている。
細い首が傾げられ、真っ直ぐに通った表情が歪められた。先程思い描いた傭兵の表情がそうであったように。成程、この表情は彼女のものだったか。
「あなたたち、どうしてここに?」
問われた瞬間、しまった、と心臓が跳ね上がった。
彼女から言い渡されていたのは、教室内での自習。聖堂に近付いて祭司たちの邪魔をしないように――
「お、オレたちはコレットの護衛!」
これは嘘でない。だから疚しいところなんて何もない。そう思いながら、ロイドはなるべく大きく胸を張った。
イセリアの子供達にとって親以上に力を持って見えるリフィルと言えど、マナの血族の問題には口を出せない。ましてや天の奇蹟にまつわる事ならば。
「婆ちゃんも、試練を受けろって言ったんだからな」
些か早口に捲し立てたその言葉の真偽を求め、弟と同じ深い知を湛えた菫色の瞳が狭められる。
何度か繰り返した言葉を、ロイドはもう一度心の中で呟いた。
コレットを守りたい、その行動は間違ってない筈だ。
「しかし」
後を引き継いだのは、あの低い声だった。背後から近付いてきた重いものと軽いものとの足音が不規則に止まる。
「神子の護衛は私だけで、お前たちは勝手に付いてきたのでなかったか?」
「クラトス!」
取りなしを図ってくれるのかと思いきや、彼が言ったのは期待と逆様のこと。これでは怒られてしまう。リフィルは優しく寛容な教育者だが、こと自分の道理に反する行為には厳しいのだ。
苛立ちを纏わせ振り返ったロイドは、けれど吐き出そうとしていた言葉も、子供じみた癇癪の表現も手放さざるを得なかった。
「では勝手にすると言ったのは嘘か」
不思議な事だが、その鋭い眼は、刺すと言うよりも心を射った。その場凌ぎの弁を弄するような男なのかと問う視線だ。一人の男として負けられないと思った。自分の仕事に対する誇りと責任は共に背負うべきものだ。養父がそうしているように。
だが、闇雲に否定するだけでこの気持ちを伝えられはしない。
「……嘘じゃねーよ」
喉から絞り出せたのはそれだけだった。
それきり押し黙ったロイドに併せ、ジーニアスが項垂れる。
「ご、ごめんなさい」
ふぅ、と静かに息が吐き出される音がして、リフィルは癖のある銀髪を緩く揺らした。
「分かりました。覚悟はよろしい?」
まずい――ロイドは反射的に眼を瞑った。恐らくは傍らのジーニアスも。それは恐怖と言うより、互いの姿を見ない親友としての情けだ。
けれど救いは最後に残されていた。
「あの、あの」
胸の前に置いた両手を懸命に振り降ろし、訴えて出たのはコレットだった。
「先生。ロイドたち、私を心配して付いてきてくれたんです。だから――」
言葉を句切ると、困った時の癖で彼女は視線を落ち着きなく泳がせた。
再生の神子の口添えならば、或いはリフィルも押し止めてくれるだろう。否、このイセリア中探しても神子へ逆らう者などない。一瞬期待にロイドの胸は踊り、直ぐに沈んだ。優しい幼馴染みの嘆願と傭兵の視線の狭間にあると、こんな事に助けを借り、責任を果たさぬ自身が酷く惨めな気がしてならなかったのだ。ついに思い切ったロイドが彼女を遮ろうとしたその時。
続く言葉を見出したコレットの顔が輝いた。
「だから、あんまり痛くしないであげて下さいね」
歌うように跳ねたコレットの語尾、クラトスが零す何かを含んだ吐息、引き付けに似たジーニアスの呻き声、それからリフィルが艶やかに微笑うのを経て、漸くロイドは事態を理解した。
「ええ、分かっていてよ」
承諾は強制的な反省を促す罰の執行を意味する。
「神子、我々は先に戻っているとしよう」
「二人とも、よかったら後でウチに寄ってね」
コレットを伴い出口へと向かう、滅紫の背が滲んで見える。寄り添う白い礼服は差し込む陽に縁取られ、天使に似て見えた。
思わず呼び止めるような声が出た。だがどちらを呼んだものだったろう。
出会いの時と同じように、僅かに動かされた顔から瞳が垣間見える。その色はやはり紅く、だが微かに笑んでいた。
「子供はしっかり叱られておくと良い」
先生の折檻はそんな程度じゃないんだ、とロイドの心は去りゆく背中に叫び声を上げたが、彼がもう一度振り返る事はなかった。