竈には既に火が熾されていた。
炊事場から失敬した油紙で仕上げたばかりの細工をくるみ、ふと見上げた窓の向こうに養父の姿があった。包みを戸口に残し、外に出る。
女神の祝福か、空は神子の旅立ちに相応しく晴れ渡っていた。
「親父」
その天の下、ダイクはまるで昨夜の傭兵がそうであったように、墓前で佇み、ロイドに背を向けていた。呼び掛けに、眉毛とその下の瞳がロイドを振り返る。
「ほらよ」
差し出され、反射的に受け取ったのは銀の腕輪だった。未だロイドが到達しえない糸鋸の腕で細かに透かし彫りされた紋様は――要の紋。
ロイドは目を見張った。
「どう使うかは、おまえの自由だ。一応、儂は止めたぞ」
それは許しや免を超越して、ロイドの判断や行動を受け入れ認める愛だ。
「親父、ありがとう」
指先でなぞった銀の細工は、未だ作り手の温もりを宿していた。
「ドワーフの誓い、第2番。それを実践しただけでぇ」
困っている人を見かけたら必ず力を貸そう。
叩き込まれた教えの一つを心で唱え、ロイドは大きく頷いた。ダイクは確かに自身の養父であり、自分は養父の息子だった。証拠に、誓いは互いに呼吸の先にまで染み込んでいる。
そして新たに自身が誓いを立てる気持ちで、ロイドは形見のエクスフィアが宿る左手を強く握った。
「親父、俺、旅に出る」
木々の合間から差し込む陽が、墓石を白く斑に染め始めていた。
「コレットたちと一緒に世界を再生して、母さんの仇をとる」
養父は流石に太い眉根を寄せ、だがやがてそれを解いた。
「そうだな。そう言うと思ったわい。でもな」
それは応えと言うよりも、晩酌の際にふと零れる独り言のようだった。途切れた言葉の続きをロイドは待った。
「ここはおめぇの家だ。血が繋がってなくてもおめぇは儂の子供だ」
口にして言われたのは初めてであったかも知れない。
「疲れたらいつでも帰ってこいよ」
その言葉は心へ静かに沈潜した。
「……わかった」
それ以上に言う事が見当たらず、ロイドは戦慄く下唇を噛み押さえた。一歩間違えば、何処から込み上げて来たものか、涙が出そうだった。
旅立ちの日に泣くなど、男のする事でない。ゆえにその空気を吹き飛ばすかのように養父は腕を振り上げた。
「ロイド、ドワーフの誓い第七番を忘れるなよ」
「正義と愛は必ず勝つ、だろ。今時だっせーな」
照れ臭さにロイドは肩を竦めたが、本当は分かっている。
養父が教えてくれた事は、何もかも忘れる事などなく、この先にどんな旅路が待っていようと、共にあるだろう。
自分たちは親子だからだ。
その気持ちはやはり巧く言葉には出来ず、代わりにロイドは養父に視線を当てた。養父は頷き、そして――
「ロイド!」
思い掛けなくも、今度の声はロイドの背後から上がった。弾む息がもう一度同じ名を呼び、家の前の川を渡る軽い足音を残して角を曲がる。
「まだこんなところにいたの!」
鼠色の髪の端々を陽で銀色に輝かせ、現れたのはジーニアスだった。
一人で、しかもこんな朝早くに彼がやって来るなど珍しい。この隘路を余程急いだのか、前屈みになって息を整える小さな肩は大きく上下した。
「ちょうどいいや。マーブルばあちゃんの要の紋、作ってもらったぜ」
「それは、嬉しいけど……コレットの見送りはどうしたのさ!」
もどかしく足踏みする幼馴染みに、幾らか誇らしさをもってロイドは述べた。
「それなんだけどよ。俺も旅についていこうと思ってるんだ」
途端、ジーニアスの眼と口は大きく開かれ、小さな肩は朝露の冷たさと関係なく小刻みに震えた。
「ばっ」
「ば?」
上がった声は意味のある言葉でない。復唱し首を傾げたロイドに、親友は変声前の甲高い声で怒鳴った。
「バッカじゃないの!」
吊り上がった瞳は、さすがに姉弟と言うべきか、先生に似ている。
戸惑うロイドに焦れ、彼は小さな身体ごと飛び跳ねる勢いで両腕を振り下ろした。
「コレットたちならとっくに出発しちゃったよ!」
馬鹿な。俄に信じられず、ロイドはとるべき行動を失った。
「ボク、何時までもロイドがこないから迎えに来たんだよ!」
馬鹿な。自失したまま、もう一度ロイドは同じ事を思った。だって、贈り物は未だ渡せていないのに。
代わりに動いたのはダイクだった。
「ロイド、行って来い。旅に必要な荷物はここにある」
それは気に入りの服と同じ、赤い皮の背負い袋だった。旅に出る決意は本当に見通されていたらしい。
これだけ後押しをされて、何時まで惑っている必要があろう。
「わかった。親父、ありがとう」
急いでノイシュを小屋から出し、跨ろうとしたところで大切な忘れ物に気付いた。
「いけねっ」
舌一つ打つのももどかしく玄関口に滑り込み、贈り物を掴む。
すかさず火打鎌を取った養父が石を高く鳴らし、ロイドの目の前でぱっと火花を散らした。
「行って来るよ」
踵を返し、今度こそ家を出る。
押し上げられ先にノイシュに跨ったジーニアスが、慌てた為に転げ落ちそうな程前屈みになって荷物を受け取る。
「はやく!」
焦れて振り上げられた小さな踵が脇腹を掠めでもしたか、ノイシュは少し落ち着かない様子で足踏みを繰り返していた。大きく弾みをつけて背に飛び乗ったロイドは、それを鎮めるため草原の色の首筋を大きな動作で叩き、それから声を上げた。
「ノイシュ、風より速く、イセリアへ!」
途端、駆ける申し子は大きな耳をぴたりと頭に寄せ、薄い芝草の上を踏むその足音が世界に伝わるより早く走り出した。