天の響

24:手紙

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 初め、雲が空を覆ったのだとロイドは思った。だがそれは間違いだった。
 上げた視線の先に、傷付いた巨躯あった。倒れ伏したはずの怪物が立ち上がったのだ。
「わぁあ!」
 突き飛ばされた姿のまま、地面に手を着いていたジーニアスが悲鳴を上げロイドの背に隠れた。異変に気付いたフォシテスも、背後に首を巡らせる。
 化物が上体を倒しのし掛かったのは、その時だ。
「なにっ!」
 長い腕が巻き付き、フォシテスの身体を締め上げる。
 驚愕と困惑が場を支配した。ディザイアン達ですら戸惑いが先立ち、長を助けられずにいる。
 その時、単眼が正面の子供たちを見下ろし、無い口を動かした。それは喉の奥で言葉が泡立っているような不明瞭な音だったが、人の言葉に似て聞こえた。
「逃げな、さい……ジーニアス、ロイド……」
 怪物が自分達の名前を呼んだ。その事実に驚き、二人は顔を見合わせる。
「な、何、今の声」
 異形が喉を反らし、全身で咆哮した。フォシテスが身を捩り、引き剥がそうとしているのだ。脈打つ黄金色の血管が浮き上がり、ロイドが斬り付けた傷から鮮血を吹き上げる。
 それでも、怪物はフォシテスを放さない。それどころか、ロイド達から遠離ろうと男を引きずって一歩下がる。
 まるで守るために。
「まさか」
 ジーニアスの菫色の瞳が、怪物を映したまま、大きく円の形に開かれた。
「マーブルさん」
「そんな馬鹿な!」
 ロイドは思わず否定したが、応える声は確かに人間牧場で会った、あの老婆のものであった。
「離れて、早く……っ!」
 その後の言葉は聞き取れなかった。獣の唸り声が混じり、耳を澄ませても判別出来なくなった為だ。
 ロイドたちが思わず退いたのと逆に、人の意識が埋没し戒めが緩んだのを機と捉えたか、鶏冠兜のディザイアンが鋭く号令を発した。
「フォシテスさまをお助けしろ!」
 幾重にも重ね、鋭く突き出された槍の穂先は、しかし長く伸び出た赤い爪に振り払われた。
 あれが、人間?
 ロイドの背筋を冷たいものが伝った。あの醜悪な生き物が、人間! ――だとすれば、先程自分が斬ったものは。
「ジー、ニ アス」
 化物の頭が巡らされ、もう一度子供たちを探し当てる。口はなく鼻はなく、表情があるとは到底言えぬ。だが、二人の目にはこの時、その顔が微笑んだように見えた。
「新しい孫が出来たみたいで、嬉しかった……」
 さようなら。
 空気が震えた。別れの言葉を、咆哮に変えて。
 その瞬間、フォシテスを腕に抱えたまま、マーブルは未だ炎の止まぬ家の中に飛び込んだ。あっと思う間もなく、凄まじい熱量が膨れ上がり、家屋ごと炎が吹き上がった。理屈は分からず、ただ、なにか生命の力のような物が爆発したのだとロイドは思った。それは直感だった。悲鳴を轟音が掃き捨てる。長を助けるため包囲を狭めていたディザイアン兵たちを熱波がなぎ倒し、咄嗟にジーニアスを庇ったロイドの背も強かに灼けた。
 どのくらい、そうしていただろう。
 数は少ないが確かな声が注意を引き、振り向いたロイドは、焦げ付いた大地の上にフォシテスの姿を見付けた。
 男は立っていた。己の足で。
 戦慄が走る。紅い片眼は、自身を呑んだ炎すらその内に封じたかのように、強い光を宿している。だが――
「……ロイドよ」
 ロイドはその光が、憤りと恥辱を所以としている事に気付いた。負った創痍はフォシテスから血の気を喪わせていた。それでも彼が膝をつかぬのは、戦士で、男だからだ。ロイドはそう理解した。ジーニアスならばそれを矜持と呼んだだろう。
 震える指先がロイドを、そして左手のエクスフィアを指し、フォシテスは宣告した。
「そのエクスフィアを持つ限りお前は我々に狙われる。覚えておくが良い」
 その言葉を最後に、指折れる程に数を減らした兵士たちがフォシテスの傍に寄り、幾人かは同胞を肩で支え、そのまま空気に溶けるように消えていった。跡には、巨大な燃え滓と、燃え尽きた骨組みが残るばかりである。
 暫し立ち尽くすロイドの脇を、ジーニアスが蹌踉めきながら過ぎた。
 ディザイアンたちは魔術で退却していったのだと理解したのは、その時だ。
「ま、マーブルさん……」
 崩れるようにして膝をつき、ジーニアスはかつて老婆だった燃殻を掻き抱いた。震える声で、最早応える者のない名を呼ぶ。繰り返し、それしか、言葉を知らぬように。
 マーブルさん、マーブルさん。
 揺れた身体から煤が落ちたかと思うと、膨れ上がった腕の蒼い石が零れ、ジーニアスの膝上にころりと転がった。それが契機であったかのように、辛うじて保っていた形は崩れ、ジーニアスの指の合間を掬えぬ灰が零れていく。暖炉の薪が崩れ落ちるように、呆気なく。
 もう、抱けもしない。
「――うわぁぁぁぁぁ!!」
 友は嘆きに胸を満たし、その慟哭がロイドの中を埋め尽くした。
 想いを共有出来ているとは思わない。マーブルとは昨日、ほんの短い時間を共に過ごしただけだ。
 ただ、人とはこうして死ぬものだっただろうか。
 己が斬ったのは、怪物だったのか、マーブルだったのか。
 ロイドは掴んだままだった短刀を、酷く後ろめたい気持ちで背の鞘に戻した。刃が収まった事を確認し、節々が白く強張った指を柄から引き剥がす。瞬間、刀身を拭い忘れた事に気付いたが、もう一度それを引き抜く事は、彼には遂に出来なかった。