エクスフィアは潜在能力を引き出す魔法の石である。
これを身に付けた者は力が増し、疲れを忘れ、時として己すら知らぬ力に目覚める。数で劣るはずのディザイアンが人間を制圧出来た背景には、この石の魔力があった。むろん、過去に人間が得たエクスフィアも皆無でなかったが、その殆どはマーテル教会に寄進され、ロイドやクラトスのように自ら使用している例は極めて稀だ。そして教会で保有した石も、恐らくは神子を守る祭司に貸与されたのだろう。危険に満ちた再生の旅の行程を思えば、石がもたらすだろう恩恵は計り知れない。
であるから、入手したエクスフィアを使いたい、とリフィルが主張したのも当然のことだった。ましてや、彼女と神子当人を除く同行者は皆エクスフィアを身に付けている。
菫色の瞳に浮かぶ光が、どこか酔ったような色で期待に揺れた。
だが――
ロイドは口を開き、しかし言葉の代わりに息を吐き出した。
「難しいだろう」
言い淀んだ言葉を引き継いだのは、やはりクラトスだ。
「エクスフィアは、要の紋がなければ人体に有害なだけだ」
リフィルの落胆ぶりは、子供たちにも一目で分かるほどだった。活力の喪失と共に大きく肩が落ち、銀の眉宇は下げられる。
「要の紋って作れないんですか?」
問うたのはコレットだ。
「要の紋の製作は、ドワーフの間に伝わる秘術と聞いている」
「ああ。呪は俺でも彫れるんだけど、土台になる抑制鉱石の加工は親父にしかできないんだ」
それは地底深く隠遁した一族の技術だ。
養父は自身の技術を隠匿することこそなかったが、養い子が身の丈に合わない技に手を出せば厳しく叱咤した。ロイドが抑制鉱石を打った経験は過去に一度だけ。その時には、養父の手に掛かれば黄金の輝きを持つ石が、己の鎚では力を失い陰った。以来、基礎に立ち返って腕を磨いたつもりだが、抑制鉱石の加工に携わる許可は未だ下りていなかった。依頼を受けるような細工でないため、養父が忘れているだけであったかも知れないが、あの日確かに感じた養父の技術と、己の未熟さは、ロイドの中に今もある。
結局、剣の技も細工師の技も、自身が理想とする域には程遠い。
「ねぇ? 抑制鉱石というのはこの中にないのかしら」
諦めきれない様相でリフィルが荷を解く。途端、寝台に並んで腰掛けた子供たちの口から、性質の異なる溜息が零れた。
「これがバラクラフ王廟の聖なるツボ、これがマーテル教会聖堂の宝剣、これがアスカード遺跡から出た神官の冠、これはハイマの鉱山から出た黄鉱石」
見る間に骨董の見せ物が開かれた。
リフィルは一つずつ指差し説明を加えたが、考古学は勿論、神学も興味のないロイドにとってはガラクタと相違ない。唯一心をひかれた宝剣は、飾りの剥がれ落ちたただの石剣だった。
しかし彼女の熱意は正しく報われた。
「これは……」
クラトスが荷の一つを指し示す。
「ああ、それは天使言語が彫られているから、研究しようと思って」
傭兵が燭光に翳したのは、涙型をした小石のひとつなぎだった。指輪にしては幾分大きく、腕輪と言うには小さすぎる。傾けると、内側に刻まれた蔦の紋様が光を得て輝いた。
瞬間、ロイドは跳ね起きた。
「先生! これ、要の紋だよ!」
二人から受け取った二つの石を使い、ロイドは足下に形を描いた。
ひとつなぎの石を並べると、それは内から外へ開く円を作った。空の中央には翡翠色のエクスフィアが、まるで誂えたように収まった。
砂まみれの床に一輪の花が咲いた。
「これが? 貴方達のものとはだいぶ違う形だけれど」
リフィルが見比べたロイドとクラトスの要の紋は、どちらもエクスフィアの真下に呪を刻んだ抑制鉱石の土台を置き、周囲を金属で取り巻いている。
「呪が刻まれてれば、形はなんでも良いんだよ」
抑制鉱石を使い、呪を刻みさえすれば要の紋は効力を発揮する。ゆえに、創意を競うドワーフの細工師たちが同じ要の紋を作ることはない。
紋を見ようと、頭上から手元が覗き込まれた。床に伸びた長い影――クラトスだ。
「しかし途中で紋がすり切れているな」
彼の言う通りだった。本来の形を失っていた間に、鉱石同士か、別の荷と摩擦したのだろう。
途切れてはいるが、刻まれていたのだろう紋はうかがえる。正しい呪を脳裏に描き、やがてロイドは頷いた。
「……大丈夫、これぐらいなら俺が直せるよ」
「本当!? ありがとう、ロイド!」
ぱっと輝いた表情は、それだけで充分な対価だった。
後の話題は、大人達による明日の旅程の確認に移った。
会話を背で聞きながら、ロイドは荷物から細工道具を取り出し、彫金用の小刀を手に取った。鋭く砥いだ刃先は糸のように細い。
呪の意味を損なうことになれば、要の紋としては働かない。ロイドの意識は刃の先にのみ注ぎ込まれた。彫り進めすぎる事がないよう、紋の途切れた位置で小刀を垂直に突き立て、静かに揺らすようにして跡をなぞる。丹念に繰り返す内に、やがて呪の形がはっきりと浮かび上がった。
改めて紋を確認すれば、心が打ち震える見事な彫りだった。養父の細工とは趣を異にしているが、確かな名工の作に間違いない。
仕上げとして、柔らかな布にドワーフ秘伝の研磨剤を染み込ませて拭えば、布地の下からは貴石とは異なる輝きが姿を現す。
完成だ。
満足し顔を上げた瞬間、ロイドは部屋の暗さに眼を瞬いた。手元を照らしていたのは、置いた覚えのない燭台の灯だった。いつの間にか、亥の刻に達していたらしい。
名を呼ばれたと思い振り返れば、それはジーニアスの寝言だった。三つ並んだ寝台の一番端から鼠色の髪が覗いている。その二つ隣の寝台には、クラトスが腰掛けていた。手入れの為か、剣を手にしてはいたが、前髪の奥に隠れた緋色の視線はロイドを見つめていた。
――睨まれるようなこと、したか?
思わず、修繕したばかりの要の紋が手から滑り落ちた。クラトスの視線は一度足元でした鈴やかな音に落とされ、それからロイドに戻る。
「修復が終わったのなら、そろそろ休んだ方がいい」
まるで祭りの夜に子等を寝台へ追い立てる大人の台詞だ。
「分かってるって」
ロイドは要の紋を拾うと、扉代わりに下げられた布の隙間から部屋を飛び出した。
宿の廊下の照明は月明かりがあるだけで、薄い板張りがぎいぎいと舟を漕ぐ。その他に夜の沈黙を妨げるものはなく、いまや己を除く万物が眠りに落ちているようだった。しかし目指す部屋の仕切り布の足下からは微かな光が漏れている。
「先生」
呼び掛けに三秒の間があってから、入室を許可するリフィルの応えがあり、ロイドは幕の中に分け入った。