手紙をまわしましょう
何をしているのやら。
ロアン・マダードが熱心に机に向かっている事に気が付き、ルクティ教師はほんの少し表情を変えた。否──少しと言うには余りに微かで、教室内の誰も判らなかったけれど。
そう長くはない教師生活で彼は既に悟っていた。
それは、この教室には『真面目な顔をしているロアン』『授業に参加しているラメセス』と言う二大厄事が存在すること。
この現象が起こると大体問題が発生し、時には教員会に呼び出されてしまうのだ。
なるべくそちらを見ないようにしながら、ルクティは心中で経を唱えた。
「──このように、特ε区における反発効果は、問題を孕んでいます」
話し出した途端、視界の隅に、ロアンが折り畳んだ小さな紙切れをリートに回したのが写った。リートは少し経ってから、それをレイヴに渡す。
話が苦手だと自他共に認める自分が、なぜこんな状況で室内授業を執り行っているのか。
ルクティは二度瞬きを繰り返し、そのわずかな間に今すぐ教壇を降りてしまいたい気持ちを落ち着けた。
そう。ルクティは巡り合わせにより教師になっただけで、別に教師活動にさほどの誇りを持っているわけではないし、不真面目な学生を取り締まれるほど真面目でもない。そう言った意味ではこんなこと、気にする程のことでない。
紙切れを開けたレイヴが一瞬動きを止めて、すぐにそれを握り潰した。
「問題の争点は分かりますか? ……リート君」
「えっ? 僕ですか?」
名指しで当てられ、リートが驚いた反動でがたりと立ち上がった。
「え、と〜。ええ〜」
うろうろと青緑の視線が彷徨う。
その後ろでロアンがレイヴの手元に紙屑を投げ込んだ。今度は開きもせずにそれを消し屑と一緒に払いのけるレイヴ。
「転移が出来なくなる、とかですか?」
片眉を吊り上げて、ロアンがとっと、と指で机を軽く叩いた。
そのまま窓の外を向いた視線にほっとし、これで安全に授業が出来ると思ってルクティは頬を緩める──やはり他からは分からない動きだったが。
答えを疑問形で返した少年は、発言の後少し躊躇ってから着席した。代わりにイクス教室長が挙手する。
「次元空間的に分断されることにより、空間制御が利かないことだと思われます。その一例が空間転移に象徴されるのではないでしょうか」
さり気なく先の発言者をフォローする、彼らしい発言に肯いてみせる。
一旦気を逸らしていたロアンは、また机に向かっている。今度はペンは使っていないようだが……。
「ルクティ教師。空間分断とは言え自己が現存する空間は存在するわけです。単一次元において我々が空間制御を行えない理由はなんでしょう」
ノートから少し顔を上げたレイヴが質問をする。
大変な少人数で構成されるルクティ教室のHRでは、こんな風に静かな授業風景が多く見られる。大抵、リートとイクスが補いながら解答し、レイヴが新たな議題を吹っ掛ける。こんな具合に進んでくれるから、ルクティでも授業が滞りなく行えるのだ。
漸くロアンが前を向き直った。
その右手には手のひらに乗る大きさの紙飛行機が掴まえられている。
「それは、空間に干渉する際に……」
紙飛行機が飛ばされた瞬間、ルクティは言葉を切ってプリントを持っていない左手をそちらに差し出した。ふ、と超然の転移が起こり、それが手の中に納められる。
「あ、飛行機さん」
リートが回収されたそれを見て声を上げた。イクスの眼が素早く後方に向けられ、戻る。
「例えば転移ならば、必ず対象が省略する部分の、代替空間を必要とします」
素早くレイヴのペンが動き、なにかが斜め後方に投げ付けられた。それに沿って思わず動いた視線で、勘違いしたリートがはにかむように笑う。
途端に発せられたよく通る口笛が、動き出した教室の時間を再び止めた。
「……ロアン。今の例を踏まえて説明を」
「了解」
応えだけは真面目に、ロアンが立ち上がった。
ルクティは軽く溜息を吐いて──やはり周りから気付かれることはなかった。