天の響

夫婦好き10のお題

…もしも…

 それは天と地との狭間を彷徨い、世界を見下ろしていた。
 世界の一方は富み、また一方は枯れていたが、それはどちらにも深い哀しみが満ちているのを見た。否、世界がそれの名を呼ぶ声こそ、哀しみそのものであった。
 どれほどの時が流れただろう。
 一方の大地に降り立った男がいた。男は世界に充満した痛みに身を刺され、自身も一層それを深く纏い、身体の隅々までが冷たくなっていた。
 それは男を知っていた。
 身体も心も硬質に変化した男は、それが自身の形を持たぬのと同じように、既に以前の彼でなく見えたけれど。
 それは、余りに久方ぶりな意志を持って男の後を追った。ただ流れ行く世界は男と、付き従う獣と、誰にも知覚されぬそれとの前で哀しみに身を捩り続けた。
 世界は虚ろな傷みで支配されていた。嘆きは深まるだけのように思われた、そんなある刻。
 男は女と出会った。
 女は温かかった。そして閉ざされた男の心を、その温もりで開いた。
 男はそれが知る頃の彼のように笑むようになった。哀しみが溢れた世界において、其処にあったのは確かな喜びであった。起こしたのは自身でなかったが、それもまた男の変化と女の存在を酷く嬉しく思った。
 やがて二人の間には子供が産まれた。此はそれが世界を見続けた中で、最も温かく希望に満ちた存在だった。哀しみを打ち払う光であった。
 それは祝福と幸を願った。
 だが、女は世界の異常の最たる石を身に抱えていた。石は女を蝕み、やがてその因子は彼等を辺境の森へと誘った。
 世界を見渡す存在であるそれだけが、森に隠された罠を知っていた。
 それは叫んだ。
 行っては駄目! 悪意を持つものが待ち構えているわ。
 それは叫んだ。叫んだ。叫んだ。
 ――肉を持たぬ心だけで言葉が音になる道理はなく、そよぎすら起こさぬ声に耳を傾けるものは誰一人なかった。
 男の名を呼べぬことに、それは深い悲哀を感じた。現世の総てはそれの手を擦り抜け転がり落ちていく。
 声さえ出せたなら。手を引いて止められたなら。それは一度たりとも肉体を望みはしなかったが、今この時だけは持たぬ己が身を嘆いた。
 最後に一度だけ獣が振り返り、けれどそれに気付くことなく主を追っていった。

2004/11/19 初出