これは幻だ。
視界を覆い尽くす白い霧を払うと、茂った葉が指先に当たった。ざわめきのような葉擦れの音がクラトスを起点に流れていき、世界の果てへと落ちていく。
これは幻だ。
それを自覚したまま、クラトスはしかし逃れる術も知らず足を運んだ。
真白い静寂の世界に、動き音を立てるものはただ己のみか。その時──
「──」
ひたりと影が躙り寄り、何かを囁かれた。
反射的にびくりと動いた右手には慣れ親しんだ重みがある。脳が何かを考えるより早く、腕は無造作にそれを振るった。
剣は風を斬り、遅れてそちらを振り向いたクラトスは確かに其処に宙に溶けいく金糸の残滓を見た。
霧の合間から刃を透かし見ると、剣先から一滴の水滴が流れている。身体に染み着いた癖でそれを振り落とすと、クラトスは更に前に進んだ。
妖しの類か。何が出ようとも斬り捨てるだけだが。
胸元まである雑草を掻き分けた。途端、霧が不意に数歩先までの道を開く。或いは凝縮したのか。
肩まで伸びた金髪が揺れる。その姿を碌に確認もせず斬った。いや、其処にある顔など分かり切っている。
だが続けて一歩先に現れた彼には反応が遅れた。直ぐに踏み込んで剣を突いた。否、霧の中へと差し入れたが、感覚がないまま斬った瞬間顔が見えた。利発で、真っ直ぐに前を向いた子供の表情だ。
寒いと思った。それとも心が冷えているのか。
霧の森を抜けようとする足が無意識の内に速まった。
次に現れた彼は軽やかな笑い声で手鞠をついていた。何かを話していた。ほんの少し拗ねたような表情でしかし倖せに微笑んでいた。木刀を手に真剣な表情を見せていた──
何時しか、生い茂った草も省みずクラトスの足は駆けていた。右腕だけが、自分以外の姿を斬り伏せる事を忘れない。それが責務であるかのように。
現れる彼が自分を見ていれば、何か恨み言の一つでも訴えていれば、未だ気が楽だった。それなのに彼は。
だん、と大きな物音がしたと思ったが、それは自分の足が止まった音だった。
相変わらず晴れない霧の中で、子供の泣き声が聞こえる。
嗚呼──柄を握り締めた手にじわりと汗が滲む。
これは、幻だ。