着替えを求め伸ばした腕が、戸惑いの気配を乗せ宙を彷徨っていた。
「……あれ?」
雨と泥で染めた上着を脱ぎ捨て、ロイドはもう一度着替えに手を伸ばした。だが――
少年は頭を振り、尖った髪先から水を跳ねさせた。
「親父! これ乾いてないぜ」
呼ばれたダイクは、こちらもすっきりしない表情で口髭を撫で、肩を竦めた。
「この天気じゃ仕方あるめぇ」
イセリア地方には雨が降っていた。
この数年降水量の低下に苦しむ衰退世界において、それは女神の恵みと思われた。この慈愛により用水は満たされ、山々の源泉は豊かに湧き出すだろう。村人らが期待した通り、雨は手始めに三日三晩降り――そして止まなかった。
困ったものだ、とダイクは思う。イセリアの建造物はどれも長雨に耐えるような造りをしていない。川が氾濫したらどうなることだろう。だがダイクの想像は、他の人々に比べ些か深刻さを持たなかった。
村では、ディザイアンの悪しき術でないかとも噂されているらしい。だがそうだとしても、神子のいる村だ。女神が救いの手を差し伸べない事もあるまい。
そう楽観視するのは、自身が建てた家への自負もあったが、それより当面の問題に追われていた為でもある。
「仕方ないって言っても、これじゃ着替えらんねぇよ」
ロイドが不平を漏らした。
子供はこんな事態だろうとお構いなく泥だらけになって帰ってくる。もっとも、ロイドほど派手な被害を衣服に与える子は少ないだろうが。
水がなければ洗濯出来ないが、陽がなければ乾くこともない。厄介なものだとダイクは思う。
どちらかと問われればドワーフは身なりに気を使う方でない。だがロイドは陽の匂いがする服を好んだ。陽を孕んだシーツを好んだ。
それを人間種族の性質と言うのは容易かった。けれどきっと彼が持つ太陽の記憶は経験に違いない。人間の両親がいかに子を慈しみ育てたかが忍ばれ、養父はその点については子の意向を汲んだ。同時に、それは太陽とはただ眩しいものだと思っていたダイクの価値観を変える驚きだった。
親しんでみれば、太陽の温もりは鉱石にも劣らぬ。繊細な細工物ほども煌めいている。
それが分かるからこそ、ロイドの希望を叶えてやりたい。ダイクは手渡された着替えに視線をやり、喉の奥で低い思案の声を上げた。そしてふと、水気を帯びた重みを掴み上げる。
「こんなもん、こうすりゃ乾くさ」
無造作に、但ししっかりと服を手に取ったまま、常は鎚を振るう右腕を素早く回転させる。ロイドが大きく開いた目を輝かせ見守る中、風を受けて裾が翻った。
赤い輪が宙に描かれる。
「すげー!」
大きく開いた口からは、ロイドの数少ない語彙の中で最も感嘆する言葉だけが数回零れた。
少し陰りの見える日であっても、風が出ていれば洗濯物は乾く事があった。そう考えての行動だったが、ロイドには新しい遊びのようにも見えたのだろう。
「俺もやりてぇ」
その要望に応え、ロイドの手に返す。
ぶん、と間近く服が舞った。だが、危ないと叱る間もなく。
「……結構疲れるなぁ」
「もっと気合いを入れろぃっ」
あまりに飽きっぽい息子に思わず眉を逆立て、ふと気付けばダイクは腰つきから腕の振りまで事細かに指導し始めていた。一旦投げ出そうとしたロイドも、剣や鍛冶の修行の一貫のようなものだと勝手に捉え直したらしい。ダイクにも劣らぬ力強さで暫くの間着替えを振り回し続けた。
しかしこれだけ尽力したにも関わらず、この日のロイドの着替えは、力一杯握り締めた為に皺がつく、鍛冶場に残っていた煙を吸い込んで臭いがつく、と散々な結果に陥ったのだった。
早く、雨が止むと良い。