天の響

ゼロスファンに30のお題

 宿の階下に設けられた酒場は、多くの客で賑わっていた。談笑する職人たち、商談を交わす商人たち、ささやかな宴を楽しむ老夫婦、そして、物珍しい面持ちで窓の外の景色を眺めている旅業の客たち。
 それらすべてに背を向ける姿勢で、ゼロスは酒を飲んでいた。
 フラノールは雪の降る街である。
 ゼロスは雪が嫌いである。
 ゆえに、彼は雪を見えぬものとして酒を飲む。
 ふと、子供が窓を開けでもしたか、凍てついた風が吹き込んだ。死を呼び込む寒さだ。無意識の内に首が竦み、頭を垂れるような仕草でゼロスの背が丸まった。
 干したグラスに映る顔は陰気な表情をしている。ゼロスは酒気よりも自嘲に色付く息を吐いた。先の冷気の名残で、微かに白い。
 この凍土へ近付くことすら避けていたのに、泊まる羽目になるとは何の因果だろう。原因を突き詰めれば己に帰する点もあったが、それは片目を瞑ればなかったことに出来た。
 前を向く目を自ら閉ざせば、皮肉にも視界は瞼の裏側に行き着いた。
 雪は背後で深々と降り続ける。
 一年中雪に埋もれたこの地では珍しくない光景だが、それはあの赤い雪が降った日、メルトキオの空を舞っていた雪に良く似ていた。
 どうせ降るならば、あの日の情景など欠片も感じぬほど吹き荒れてしまえば良いのだ。ゼロスは密かに願った。そして何もかもを白く、流された血などすべて掻き消して――
「そんな吹雪ふぶいたら、またこの街に泊まることになるんじゃないか?」
 心の呟きに不粋な口が挟まれ、ゼロスは顔を上げる。旅の主導者である少年が、少しだけ首を傾げ、ゼロスを見つめていた。その真っ直ぐな目線と向き合い、心の臓器がびくりと電流を受けたように跳ねた。頭の頂点から、波が引くように酔いが醒めていく音が聞こえた。
 口に、出ていただろうか。どこから、どこまで?
 ゼロスは落ち着くために、ひとつ呼吸をした。冷静に考える。
 衰退世界の少年の性格からすると、別の話題へ気を向ければ、その前の出来事は忘れてしまうだろう。少しだけ違和感を覚えても、後から持ち出す事はない。
 わざとらしく口の端を上げ、ゼロスは大仰に両手を広げた。
「なぁんだ、ロイドくんじゃないの。お子様はそろそろ眠る時間だぜ?」
「お前を探してたんだよ!」
 思った通り、ロイドは軽口に乗せられて自ら話を変えた。ゼロスはほっと胸を撫で下ろす。
「――ほら」
 首を傾げるのはゼロスの番だった。少年が差し出した品が、自分と結び付かなかったのだ。
「雪うさぎ。コレットが教えてくれたんだけど、幸運を呼ぶんだってさ」
 講釈を受けずとも無論知っている、フラノールの代表的な土産物だ。もっとも、ゼロスが手にした事があるのは、黄金や宝石による贅を凝らした品であって、子供の小遣いで買えるだろう白木のうさぎとは異なるのだが。
「みんなの分作ったからさ、これはゼロスの分」
 その装飾品は名の通り雪のように白い。眺めているだけでも気が滅入るのを感じた。
 ゼロスは元より、まじないの類を信用していない。それが雪にまつわる品となれば、一層好ましくない。
「なにもお揃いでコレ持たなくても良いでしょーが」
 ささやかな反論は一顧だにされず、雪うさぎは眼前に突き出されたままだ。仕方なくそれを受け取った瞬間、ゼロスは酷い動揺に襲われた。
 掌に、どれほどの時間仕舞い込まれていたのだろう。
 溶ける事がないその雪は温かった。

2008/01/06 初出