宝塚雪組「エリザベート」公演で、ルドルフの印象が変わったと書きましたが、もっと具体的に言うと「小さい役」だと思ったのでした。
(以下、すべて青年ルドルフの話です)
私はこれまで、ルドルフは宝塚で言えば四~五番手の役だと認識していました。もちろん、比較的若手に回されるという点は考慮するとしても、ショーでの男役群舞がS=トート、A=フランツ、ルキーニ、ルドルフだったので、大幅には外していない認識だと思っています。
実際の舞台上においても、登場は2幕のみとは言え、「闇が広がる」「僕はママの鏡だから」の2曲があり、両主役と関係する美味しい役。得意分野が演技でも、歌でも、ダンスでも、とにかく一つは魅せることが出来る程度に場が与えられていますよね。だから、役不足ということはないはずです。
でも、凄く印象が小さい。
何故そう思ったかとよくよく考えた結果、役が小さいと言うよりも、弱い人なのだと思い当たりました。
歴代ルドルフについては「闇が広がる」のシーン(映像)しか見たことがありません。この場面限定での印象は、トートに唆され、独立運動決起を決意するというものでした。
ところが実際は、この後エルマー達と相談し、まだ決起しようとしないものだから彼等からも促される。そして遂に運動が起こるものの、ここに至ってもルドルフが自ら立ち上がったようには見えませんでした。周囲が動き出し、流されて旗頭に担ぎ上げられてしまった表情をしている。
父に叱責を受け、母から拒絶されて生きる意味を失うことから見ても、ルドルフは、他者に依存している。
このルドルフが唯一自身の意志を見せたのは、「闇が広がる」で、トートからの死の口づけを拒んだ時だけです(観た回だけかもしれませんが、凄い顔を背けてました)。
私にはそんなルドルフが、怯える子供に見えました。
一人ぼっちの暗く寒い部屋で、猫を殺して育ったルドルフ。「エーヤン!ルドルフ」と歓呼されることを夢想したのは、王座への欲望でなく、人から愛して貰いたかっただけなのではないでしょうか。
だからこそ人の囁きに左右され、けれどどちらかを選ぶことが出来ず流されるままに過ぎてしまった。その弱さが、彼を小さな人間にしているのです。
ルドルフ本人は、真っ直ぐな理念を持っていると思います。銃弾に倒れたエルマーを、彼はとっさに我が身で庇ったように見えました。ママに縋る時でも、彼は自身の継承権を訴えるのでなく、ハプスブルグの行く末を憂いて訴えるのです。
でもその優しさは、祖母ゾフィーが皇帝教育時に繰り返した「冷静に、冷酷に」とは真逆。愛されたい余り他人に左右される生き方は、母エリザベートの「私だけに」とも真逆。
ただの、トートに翻弄される普通の人間だから、彼は小さかったのです。
邦題「僕はママの鏡だから」は、原題を忠実に訳した場合「僕がママの鏡だったら」になると聞いた事があります。
――僕が、愛するママの鏡そのものだったなら、どんなに良かっただろう。
凰稀かなめが演じた雪組再演版ルドルフには、そんな悲哀があるように感じました。
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