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大衆向けに売れる作品を書き殴る“流行作家”だって立派なものだと思いますが、スコットやアーネストは文芸と言う芸術作品を世間に認められる“大作家”を目標にしているので、その評価では自分が納得できないんですよね。どちらが良いとか上だと言う話ではなく、目指す所が違うわけですから。
一度“流行作家”ルートに進んでしまったスコットが“大作家”ルートに進むのは、レースゲームで逆走するような感じなのかも。

【第1幕7場】
アーネストは文壇に華々しくデビューした。米国は空前の大景気で、スコットは気違いじみた連夜のパーティと深酒に溺れて行く――

女優ロイス・モーランに対抗してバレエにのめり込むゼルダは、過度の集中で視野が狭くなっていて、精神病初期状態を良く表現していると思います。そして、初登場時よりも少女のように幼く見えるのが恐ろしいです。紫城るいって、声質が独特で役を選ぶけれど、芝居心のある役者だったんですね。
ライブ映像としては大変珍しい事に、このシーンはアングルが目紛しく揺れ動き、狂乱と悪酔いを表現していて、良いDVD演出だと思います。
アメリカの大恐慌直前は、実際にこんな状態だったんでしょうね。正直馬鹿げていて、マックスやアーネストが向ける軽蔑の眼差しの方に同感します。演技を見ていると、スコットも実際はこの生活を倦んでいるのに、ゼルダ(=自己を映す鏡)から眼を背ける代替物として馬鹿騒ぎが止められなくなっているのだと感じました。

【第1幕8場】
マックスの叱責を受けたスコットは、“ゼルダを愛し、世界最高の小説を書く”夢を思い出す。しかし1929年、世界大恐慌が起こる。そしてゼルダは精神分裂症と診断された――

心情を台詞で説明する芝居ではないので、あくまで解釈としての粗筋ですが、8場の時点で、スコットは自分を取り戻したのでないかなと考えています。もしゼルダが正常な精神を保てていたなら、やり直せたかも知れないと言う二重の悲劇。
こうして纏めると、1幕はかなり急展開ですね。
青春から絶頂期、そして絶望へ行き着いてしまったスコットは、しかし6〜7場に比べると自分の意志を宿した強い表情で、一幕を自ら閉じており、今後の復活に望みがありそうだと思わせるのですが……。
その続きは、また次回。

【第1幕5場】
スコットは、長編「華麗なるギャッツビー」を書き上げ、名声を得る。
しかしスコットが執筆に没頭する間、自身を見失ったゼルダは浮気に走った末に自殺ミスを起こし、二人の間に溝が生まれてしまう――

悲劇の始まり。
リビエラは訪問時点から不安を掻き立てるBGMが演奏されており、破局が来る事を予期させます。
ゼルダが叫ぶ「貴方といたいの!」はフラッパーを演じる彼女が初めて言った本音。第三者から見れば満ち足りた生活をしているのに、精神を病んでしまうのは、スコットのような「自分はこれだ」と言える自信を持っていないからだと感じました。そんな彼女の不安に共感出来る気がするのは、俗に言う“現代日本の病”に通じるためでしょうか。
不倫相手の海軍士官エドゥアールは真野すがた。ゼルダの頬に添える手付きが色っぽく、プレイボーイな芸風が既に確立していることが、とても愉快でした。
華麗なるギャッツビー」がこの時執筆されたと言うのは、本当に皮肉なことですね。一心不乱に原稿に向かう間、自分が小説と同じような状況に陥っているなんて。
ところで、スコットはこの当時から睡眠薬を常用していたのですか? 彼の不眠症も、かなり根深い問題のような気がします。

【第1幕6場】
アーネスト・ヘミングウェイと知り合い、“本物の作家”ぶりに惚れ込んだスコットは、マックスに紹介し出版を助ける。
一方、アーネストはゼルダが精神を病んでいることに気付き、スコットに及ぼす危険性を指摘する――

遂に、アーネストの出番です。
4人目の通し役・アーネストを演じる月船さららは、線が太く、自信があって、押し出しが良く、戦闘意欲を感じます。そもそも、大空は月船より学年と番手が上ですが、このスコット役が初バウホール単独主演。一方、月船は代役とは言え前年にバウホール主演経験有り。下剋上OKの月組生と言うこともあり、相手を喰う気が端々から出てるのかも知れません。
そして、それが男臭さを演出していて、アーネストに良く合っている。アーネストがスコットへ向ける喰い付き噛み千切るような眼差しが、怖いくらいだ、と思います。
再演の北翔海莉版アーネストが見たいと常々思っていたため、DVD購入になかなか踏み切らなかったのですが、月船さらら版を見ると、この「攻撃性」が病み付きになりそうです。

ゼルダは、完全に情緒不安定で、どう見ても奇怪しい女になっているのですが、スコットの目にはそう映っていないのでしょうか。
何度か見直しているうちに、ゼルダがアーネストに対して酷く振る舞うのは、スコットの「俺の心を捕らえてる」と言う発言を聞いて、嫉妬しているからだ、と腑に落ちました。男だ女だと言うことでなく、如何なるものであれスコットの賛美が他者に与えられると、それが自分の否定に繋がって感じるのでは。
好き合って結婚し、成功もして、幸せが手に入った筈なのに、お互いに攻撃し合っている状態に陥っている二人は、可哀想だなと思います。

前回から間があいてしまいましたが、DVD感想の続きです。

【第1幕2場】
少年時代、自分の才能を信じるスコットは、富と栄光とロマンスを求めて文壇を目指し、スクリブナーズ社に原稿を送る。非凡な物を感じた編集長マックスはスコットと契約する――

場面転換はなく、衣装もそのままですが、暗転後の娘役の第一声が明らかに子供の残酷さを含んだ声を発するので、先程までのパーティから時を遡ったのだとはっきり読み取れます。男役の三人は、娘役二人に比べるとあまり通常の芝居声と差がないかな。特にアンサンブルで参加している真野すがたが、どの役でどの台詞を言っても真野すがた以外の何者でもないことに、密かにウケます。
ベストを脱ぎサスペンダー姿になったスコットは如何にも少年。声もちょっと高く作ってるのでしょうか。最近の声とはだいぶ違いますね。
「自分には人とは違う秀でた何かがある」と信じるスコットは、若くて、ただ真っ直ぐで、眩しいです。物を作って公開しようという方は「才能」を多少自負してると思うのですが、これだけ確信してるのは凄いですよね。
マックスが、原稿を読んでる表情、社長へ直談判する決心、スコットと会った時、ゼルダの事を聞いた時など、本当に作品と、その書き手であるスコットを愛おしんでると感じられる表情で良いです。
「Life」を歌い初めるシーンで、とても余白のある撮り方をしていて、舞台のライブDVDとしてだけでなく、映像作品としてのレベルを持っていて嬉しいです。
マックスが一流の作家となるべくスコットに求める「仕事への忠誠」「不屈の精神」が台詞だけでなく深い意味を持つ事に、何度目かで気付きました。つまり、この期待を、彼は裏切ってしまうのですね……

【第1幕3場】
作家として成功したスコットはゼルダと結婚し、ニューヨークで暮らすようになる。奔放な“フラッパー”ゼルダは、常にスコットが書く小説のヒロインとなる――

幸せな二人。この1場しか、まったく不安のない幸福な時期ってないですよね。そんな幸せの絶頂の中で歌われる「You are me, I am you」は、はしゃぎ回る二人は楽しそうだけれど、デュエットすると何処か不安定で直ぐ壊れてしまう硝子細工のように感じるのが面白いですね(二人とも歌が得意分野じゃないから?)。
そして「背中に羽が生えてる」と言うゼルダのスコット評から考えると、大和版スコットも観てみたいなぁと思います。

【第1幕4場】
ハンサムな新進作家と南部一の美女の夫婦は、アメリカンドリームの体現者として一躍時の人になる。ジャーナリストの好奇の目、新作の酷評から逃れるため、スコットはゼルダを連れてアメリカを離れる――

ゼルダがフラッパーの条件に挙げる「自分の生きたいように生きる勇気、そしてそれを実行する無鉄砲さ」は、実はゼルダに備わっていない物だったのではないでしょうか。夫婦の時は世間の評判を気にしているし、いつもスコットの気持ちも推し量っている。ゼルダは本当の自分を隠して、フラッパーを気取ってるだけなのか。
最初気付いていなかったのですが、記者会見場にマックスもいるんですね。スコットへ向ける眼差しが、2場の愛情に満ちたものから痛みのあるものに変わっていて、少しドキッとします。
「君は俺の仕事か、プライベートか、どっちに興味があるのかね」
「貴方は、大衆の貴方への興味がどちらにあると?」
綾月せり演じる辛辣な記者とのやりとりは、追い回される著名人ならきっと自問する嫌な質問ですよね。
しかし、成功したと思ったら早くも酷評を受けているらしい展開の早さには少し驚きました。

【序】
舞台は1940年12月21日12時、スコット・フィッツジェラルドが死を迎えるまで後2時間……スコットを演じる役者は、残された僅かな時間にスコットが何を感じていたのか考え、彼の人生を彩った人々を喚び起こす――

初めにスコットの死の直前が演じられてから、この劇が二重構造の芝居であることが明示される、静かなプロローグ。
劇中劇をしたり、最後に芝居だったオチなどは珍しくないけれど、役を演じつつ、同時にその役の役者として語る舞台作品は初めて観るような気がします。
“スコットを演じる役者”と言う役での演技シーンは説明的なので取り払い、死を目前にしたフィッツジェラルドが人生を回想する構造でも同じ筋立てに出来るのに、敢えてこの手法を選んだのは、テーマを明確に伝えたいと言う意図があるからかなと思います。
古いラジオの音や、全体に茶色い情景は、今遊んでるゲームV&Bにどことなく通じる、独自の雰囲気があります。
祐飛の頬がまだふくよかな頃で、それだけでもなんだか見慣れないビジュアルなのですが、オールバック風の髪型が似合わないのかな?
シーラ@五峰亜季は、「カラマーゾフの兄弟」のイワンの幻覚でも思ったことですが、ダンサーの身体をしているためか、本人の持ち味なのか、女性の色気がなく男役と抱き合っても肉欲的な印象を感じません。シーラはスコットの愛人の筈だけれど、世話焼きの母親感が前に出ているので、ゼルダを裏切った感がなくて良いですね。
それにしても、序の後、2幕9場まで出番なしなんて、専科さんの使い方は豪華で良いですね。

【第1幕1場】
ローリング20'sと言われたアメリカの華やかな時代が、スコットの脳裏に蘇る――

底抜けに明るいパーティのシーンでありながら、直ぐ側に破滅が存在している空気が拭えないのが、この舞台通しての特徴ですね。
ゼルダ@紫城るいは、失礼ながら少し老けて見える時があると思ったけれど、時々吃驚するくらい可愛いく、美人に見える不思議な娘役ですね。
このシーンは、重要人物紹介の意味合いが強いでしょうか。この後2場で更に過去へ移るので、なくても問題はない、むしろ場面の流れがスムーズだと思うのですが、敢えてマックスとゼルダがスコットにとってどんな人物か、最初に提示することで、味方としての印象を際立たせてるのかな。
少なくとも、後の場で、アーネストがスコットの紹介を得ず、自分から登場することと対比して考える事は出来そうです。

宙組初日おめでとう、と言う流れで書こうと思っていたのですが、発熱のためダウンして一日遅れてしまいました。

THE LAST PARTY -フィッツジェラルド最後の一日-

年代を一つずつ遡っていくかと思いきや間を素っ飛ばして、月組「THE LAST PARTY」を購入しました。
名作だとは聞いていましたし、1時間30分に芝居の起承転結を収めねばならない脚本作りと70人超の大人数を動かす演出力が問われる大劇場より、バウホールは面白い作品が作り易いだろうと思います。

実際にDVDを観た自分の感想としても、名作と言う声が多い理由がよく分かる、良い芝居でした。何と言っても題材であるスコット・フィッツジェラルドの一生が劇的で、栄光と転落、再起を目指す筋は古典的だけど心を揺さぶります。
やはり植田景子先生のバウホール作品は「当たり」が多いですね。
2004年11月収録。初単独主演作なのでもっと前の作品と感じてましたが、5年前と思うと、意外に最近なんですね。でも主要メンバーの半数が在席していないと言う現実に、隔世の感があります。
再生時も、TCAロゴは違うし、メニューが表示されずに本編再生が始まる仕様と画面の縦横比率が最近のDVDと異なりビデオ録画風だったり、多々驚きがありました。まぁ、5年も経てば変わりますよね。
演劇作品のライブDVDなのに、随分映像的に魅せる形で作ってあることや、バウなのに生演奏を入れてるなどの点は、スタイリッシュ。メニュー画面も作品の雰囲気を盛り込んでいて格好良いですね。
再演に耐え得る素敵な作品だと思います。やはり2006年の再演版DVDも出して欲しいです。絶対買いますよ!
しかし、これは“重い芝居”ですね。面白い反面、観ていて「しんどい」と言う気持ちが湧きました。
ながら作業中にバックで流すなどの生半可な気持ちでは鑑賞出来ません。加えて、一度鑑賞した後は少し間を置かないと過呼吸になりそうです。
……芝居って、銀ちゃんが作中で言っていたように、ある程度通俗性があった方が良いんじゃないかしら。

そんなわけで中身を分割して語るのも難しいのですが、今月からはこの「THE LAST PARTY」感想に挑戦したいと思います。