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鈍足進行してましたが、25日に大江山花伝DVDが発売されるので、ちょっとテンポアップします。

【第2幕1場】
アメリカは大恐慌の中にあった――

トレンチコート姿のスコットが、最高潮に格好良い2幕開始。
しかし不安を掻き立てる音楽と振り付けで、暗い世界情勢を意識させられます。ドレスを着た女性のコロスが何を示すのか最初は分かりませんでしたが、恐慌の中でもアメリカンドリームを忘れられないスコットを現しているのかな。

【第2幕2場】
ゼルダの入院生活は続いていた。スコットはゼルダの精神を思い遣れなかった自身を悔やむ――

なぜか、ゼルダは、精神を病んでからの方が綺麗に見えて面白いです。
自分たちの生活を「正常でなかった」と語れるマトモな精神を持っていたのが、今後スコットの心にもたらす負担を増やしたのではないかと考えてしまいます。

【第2幕3場】
スコットは、ゼルダの入院費用や一人娘の学費等生活費の為に望まぬ短編を書く日々が続いていたが、遂に長編「夜はやさし」の執筆を開始する――

ここから登場する秘書ローラは、ちょっとオバさんちっくなキャラクター。ズケズケ物を言えて、演じるには一番楽しそうな役ですね。彼女は、電話の取り次ぎ等もしてるけれど、手書き原稿をタイピングすることが最大の仕事なのかな。
「時間的・経済的余裕がないと長編は書けない」と言う台詞が、売れない作家って厳しいよなぁと切実に感じます。

【第2幕4場】
出版した「夜はやさし」は大酷評を受け、今や大作家となったアーネストからは創作姿勢まで非難される。
スコットは、自分の命を燃やし続けていた“何か”が消えてしまったと感じる――

マックスは「仕事は結果」を持論にしつつ、スコット自身には慰めを与え、果たして本心は何処にあるのかと思わされますが、仕事人としてのマックスと、作家スコットの父としてのマックスと言う、どちらも内包しているのが実際のところでしょうか。スコットの背に手を伸ばすその手は、本当に優しいです。
アーネストは嫌味臭いけれど、結局は自分にも他者にも厳し過ぎるだけですね。二人の作風は全く違うので「こう書くべき」論はあまり意味を成さないと思うけれど、彼は絶対的に高い位置に自分を置いていないと堕落する恐怖があって、スコットを攻撃的に批判するのでないかな。
芸術家が大衆に媚びた作品を作ることを「身売り」と言うアーネストの表現は、凄くよく分かります。
原稿料前借り生活なのに、妻を高い病院に入院させ、娘を私立校に行かせているスコットは、正直アホ?と思います。アーネストから見れば、どう説明されようと完全に見栄としか思えない。いや、実際にただの見栄なんですよね。1幕ゼルダとの会話で「見栄っ張り」と言ってましたから。
で、「もうあんたと話す事はなさそうだ」と喧嘩別れしておきながら、この二人、史実ではスコットが死ぬまで文通してるんですよね。そう思うと面白いです。

大衆向けに売れる作品を書き殴る“流行作家”だって立派なものだと思いますが、スコットやアーネストは文芸と言う芸術作品を世間に認められる“大作家”を目標にしているので、その評価では自分が納得できないんですよね。どちらが良いとか上だと言う話ではなく、目指す所が違うわけですから。
一度“流行作家”ルートに進んでしまったスコットが“大作家”ルートに進むのは、レースゲームで逆走するような感じなのかも。

【第1幕7場】
アーネストは文壇に華々しくデビューした。米国は空前の大景気で、スコットは気違いじみた連夜のパーティと深酒に溺れて行く――

女優ロイス・モーランに対抗してバレエにのめり込むゼルダは、過度の集中で視野が狭くなっていて、精神病初期状態を良く表現していると思います。そして、初登場時よりも少女のように幼く見えるのが恐ろしいです。紫城るいって、声質が独特で役を選ぶけれど、芝居心のある役者だったんですね。
ライブ映像としては大変珍しい事に、このシーンはアングルが目紛しく揺れ動き、狂乱と悪酔いを表現していて、良いDVD演出だと思います。
アメリカの大恐慌直前は、実際にこんな状態だったんでしょうね。正直馬鹿げていて、マックスやアーネストが向ける軽蔑の眼差しの方に同感します。演技を見ていると、スコットも実際はこの生活を倦んでいるのに、ゼルダ(=自己を映す鏡)から眼を背ける代替物として馬鹿騒ぎが止められなくなっているのだと感じました。

【第1幕8場】
マックスの叱責を受けたスコットは、“ゼルダを愛し、世界最高の小説を書く”夢を思い出す。しかし1929年、世界大恐慌が起こる。そしてゼルダは精神分裂症と診断された――

心情を台詞で説明する芝居ではないので、あくまで解釈としての粗筋ですが、8場の時点で、スコットは自分を取り戻したのでないかなと考えています。もしゼルダが正常な精神を保てていたなら、やり直せたかも知れないと言う二重の悲劇。
こうして纏めると、1幕はかなり急展開ですね。
青春から絶頂期、そして絶望へ行き着いてしまったスコットは、しかし6〜7場に比べると自分の意志を宿した強い表情で、一幕を自ら閉じており、今後の復活に望みがありそうだと思わせるのですが……。
その続きは、また次回。

【第1幕5場】
スコットは、長編「華麗なるギャッツビー」を書き上げ、名声を得る。
しかしスコットが執筆に没頭する間、自身を見失ったゼルダは浮気に走った末に自殺ミスを起こし、二人の間に溝が生まれてしまう――

悲劇の始まり。
リビエラは訪問時点から不安を掻き立てるBGMが演奏されており、破局が来る事を予期させます。
ゼルダが叫ぶ「貴方といたいの!」はフラッパーを演じる彼女が初めて言った本音。第三者から見れば満ち足りた生活をしているのに、精神を病んでしまうのは、スコットのような「自分はこれだ」と言える自信を持っていないからだと感じました。そんな彼女の不安に共感出来る気がするのは、俗に言う“現代日本の病”に通じるためでしょうか。
不倫相手の海軍士官エドゥアールは真野すがた。ゼルダの頬に添える手付きが色っぽく、プレイボーイな芸風が既に確立していることが、とても愉快でした。
華麗なるギャッツビー」がこの時執筆されたと言うのは、本当に皮肉なことですね。一心不乱に原稿に向かう間、自分が小説と同じような状況に陥っているなんて。
ところで、スコットはこの当時から睡眠薬を常用していたのですか? 彼の不眠症も、かなり根深い問題のような気がします。

【第1幕6場】
アーネスト・ヘミングウェイと知り合い、“本物の作家”ぶりに惚れ込んだスコットは、マックスに紹介し出版を助ける。
一方、アーネストはゼルダが精神を病んでいることに気付き、スコットに及ぼす危険性を指摘する――

遂に、アーネストの出番です。
4人目の通し役・アーネストを演じる月船さららは、線が太く、自信があって、押し出しが良く、戦闘意欲を感じます。そもそも、大空は月船より学年と番手が上ですが、このスコット役が初バウホール単独主演。一方、月船は代役とは言え前年にバウホール主演経験有り。下剋上OKの月組生と言うこともあり、相手を喰う気が端々から出てるのかも知れません。
そして、それが男臭さを演出していて、アーネストに良く合っている。アーネストがスコットへ向ける喰い付き噛み千切るような眼差しが、怖いくらいだ、と思います。
再演の北翔海莉版アーネストが見たいと常々思っていたため、DVD購入になかなか踏み切らなかったのですが、月船さらら版を見ると、この「攻撃性」が病み付きになりそうです。

ゼルダは、完全に情緒不安定で、どう見ても奇怪しい女になっているのですが、スコットの目にはそう映っていないのでしょうか。
何度か見直しているうちに、ゼルダがアーネストに対して酷く振る舞うのは、スコットの「俺の心を捕らえてる」と言う発言を聞いて、嫉妬しているからだ、と腑に落ちました。男だ女だと言うことでなく、如何なるものであれスコットの賛美が他者に与えられると、それが自分の否定に繋がって感じるのでは。
好き合って結婚し、成功もして、幸せが手に入った筈なのに、お互いに攻撃し合っている状態に陥っている二人は、可哀想だなと思います。

前回から間があいてしまいましたが、DVD感想の続きです。

【第1幕2場】
少年時代、自分の才能を信じるスコットは、富と栄光とロマンスを求めて文壇を目指し、スクリブナーズ社に原稿を送る。非凡な物を感じた編集長マックスはスコットと契約する――

場面転換はなく、衣装もそのままですが、暗転後の娘役の第一声が明らかに子供の残酷さを含んだ声を発するので、先程までのパーティから時を遡ったのだとはっきり読み取れます。男役の三人は、娘役二人に比べるとあまり通常の芝居声と差がないかな。特にアンサンブルで参加している真野すがたが、どの役でどの台詞を言っても真野すがた以外の何者でもないことに、密かにウケます。
ベストを脱ぎサスペンダー姿になったスコットは如何にも少年。声もちょっと高く作ってるのでしょうか。最近の声とはだいぶ違いますね。
「自分には人とは違う秀でた何かがある」と信じるスコットは、若くて、ただ真っ直ぐで、眩しいです。物を作って公開しようという方は「才能」を多少自負してると思うのですが、これだけ確信してるのは凄いですよね。
マックスが、原稿を読んでる表情、社長へ直談判する決心、スコットと会った時、ゼルダの事を聞いた時など、本当に作品と、その書き手であるスコットを愛おしんでると感じられる表情で良いです。
「Life」を歌い初めるシーンで、とても余白のある撮り方をしていて、舞台のライブDVDとしてだけでなく、映像作品としてのレベルを持っていて嬉しいです。
マックスが一流の作家となるべくスコットに求める「仕事への忠誠」「不屈の精神」が台詞だけでなく深い意味を持つ事に、何度目かで気付きました。つまり、この期待を、彼は裏切ってしまうのですね……

【第1幕3場】
作家として成功したスコットはゼルダと結婚し、ニューヨークで暮らすようになる。奔放な“フラッパー”ゼルダは、常にスコットが書く小説のヒロインとなる――

幸せな二人。この1場しか、まったく不安のない幸福な時期ってないですよね。そんな幸せの絶頂の中で歌われる「You are me, I am you」は、はしゃぎ回る二人は楽しそうだけれど、デュエットすると何処か不安定で直ぐ壊れてしまう硝子細工のように感じるのが面白いですね(二人とも歌が得意分野じゃないから?)。
そして「背中に羽が生えてる」と言うゼルダのスコット評から考えると、大和版スコットも観てみたいなぁと思います。

【第1幕4場】
ハンサムな新進作家と南部一の美女の夫婦は、アメリカンドリームの体現者として一躍時の人になる。ジャーナリストの好奇の目、新作の酷評から逃れるため、スコットはゼルダを連れてアメリカを離れる――

ゼルダがフラッパーの条件に挙げる「自分の生きたいように生きる勇気、そしてそれを実行する無鉄砲さ」は、実はゼルダに備わっていない物だったのではないでしょうか。夫婦の時は世間の評判を気にしているし、いつもスコットの気持ちも推し量っている。ゼルダは本当の自分を隠して、フラッパーを気取ってるだけなのか。
最初気付いていなかったのですが、記者会見場にマックスもいるんですね。スコットへ向ける眼差しが、2場の愛情に満ちたものから痛みのあるものに変わっていて、少しドキッとします。
「君は俺の仕事か、プライベートか、どっちに興味があるのかね」
「貴方は、大衆の貴方への興味がどちらにあると?」
綾月せり演じる辛辣な記者とのやりとりは、追い回される著名人ならきっと自問する嫌な質問ですよね。
しかし、成功したと思ったら早くも酷評を受けているらしい展開の早さには少し驚きました。

【序】
舞台は1940年12月21日12時、スコット・フィッツジェラルドが死を迎えるまで後2時間……スコットを演じる役者は、残された僅かな時間にスコットが何を感じていたのか考え、彼の人生を彩った人々を喚び起こす――

初めにスコットの死の直前が演じられてから、この劇が二重構造の芝居であることが明示される、静かなプロローグ。
劇中劇をしたり、最後に芝居だったオチなどは珍しくないけれど、役を演じつつ、同時にその役の役者として語る舞台作品は初めて観るような気がします。
“スコットを演じる役者”と言う役での演技シーンは説明的なので取り払い、死を目前にしたフィッツジェラルドが人生を回想する構造でも同じ筋立てに出来るのに、敢えてこの手法を選んだのは、テーマを明確に伝えたいと言う意図があるからかなと思います。
古いラジオの音や、全体に茶色い情景は、今遊んでるゲームV&Bにどことなく通じる、独自の雰囲気があります。
祐飛の頬がまだふくよかな頃で、それだけでもなんだか見慣れないビジュアルなのですが、オールバック風の髪型が似合わないのかな?
シーラ@五峰亜季は、「カラマーゾフの兄弟」のイワンの幻覚でも思ったことですが、ダンサーの身体をしているためか、本人の持ち味なのか、女性の色気がなく男役と抱き合っても肉欲的な印象を感じません。シーラはスコットの愛人の筈だけれど、世話焼きの母親感が前に出ているので、ゼルダを裏切った感がなくて良いですね。
それにしても、序の後、2幕9場まで出番なしなんて、専科さんの使い方は豪華で良いですね。

【第1幕1場】
ローリング20'sと言われたアメリカの華やかな時代が、スコットの脳裏に蘇る――

底抜けに明るいパーティのシーンでありながら、直ぐ側に破滅が存在している空気が拭えないのが、この舞台通しての特徴ですね。
ゼルダ@紫城るいは、失礼ながら少し老けて見える時があると思ったけれど、時々吃驚するくらい可愛いく、美人に見える不思議な娘役ですね。
このシーンは、重要人物紹介の意味合いが強いでしょうか。この後2場で更に過去へ移るので、なくても問題はない、むしろ場面の流れがスムーズだと思うのですが、敢えてマックスとゼルダがスコットにとってどんな人物か、最初に提示することで、味方としての印象を際立たせてるのかな。
少なくとも、後の場で、アーネストがスコットの紹介を得ず、自分から登場することと対比して考える事は出来そうです。