深夜のカジノで、回転盤にボールを投げ込む音が響いた。
軽快な音を立てて走ったボールが、やがて勢いを失いポケットへ吸い込まれていく。エミールは見えざる客にボールの落ちた数字を告げた。
無論、プレイマットの上には一枚のチップも張られていない。だが視線を向けたそこに赤のチップが置かれているような気がして、エミールは瞼を閉じた。
あんな惨めなゲームは初めてだった。
何度投げても、あの客が張った数字にばかりボールは落ちていった。まるで負ける為に投げているような恐怖がエミールを襲い、誰でも良いから代わってくれと叫び出すところだった。
その時、不意に扉が開く音がして、エミールは顔を上げた。
「まだ着替えてなかったのか」
扉から顔を覗かせたのはサッシャだった。間もなく夜間外出禁止時間だと言うのに、エミールが出てくるのを待っていたらしい。無論、エミールはその理由を知っていた。同じ店で働く仲間と言うだけでない、もう一つの顔を彼等は共有している。
「ああ……いや、もう帰る」
だが、エミールは緩く首を振った。こんな日は、する事を変えても碌な事にならない。水でも浴びて寝てしまうほかない。
蝶ネクタイを緩めて息を吐き出す。それだけの動作が億劫で、顔を顰めた。
「おい、本気か? 冗談だろ?」
眼差しの奥に常以上に強い光を見つけ、エミールは戸惑った。今夜の集会は、他の地域で活動する同志との情報交換でも、予定されていただろうか。
「そうか、お前表に来てないから知らないのか」
なにを納得したのか、サッシャは二度頷くと、誰もいないカジノを見渡してから、大股でエミールに近付く。そして囁くように小さく、けれど軽快な音で彼は告げた。
「ヴィクター・ラズロが来てる!」
職業柄表情が変わり難いエミールも、さすがに瞠目しサッシャを見た。
「集会に来られるのか? 見張りがついてるだろう」
ナチスの収容所脱出に成功した英雄の周囲には、崇拝者の数だけ監視の眼も付いているはずだ。
以前(2010年1月20日記事「深夜のカジノにて」)書き掛け途中のままにしていた宙組公演「カサブランカ」SSの続き。タイトルは変更しました。
この後オーナー登場ですが、会話や展開の細かいところが決まっていないので、いつ出来上がるやら……。