本記事はFLAMBERその1その2第一話の続き。


 今より遡ること半年。
 その時、僕はお客さんを見送ったばかりで、受付で施術後の記録を書き留めていた。
 入り口に取り付けられているチャイムは鳴らなかったと思う。カットをお願いできますか、と声を掛けられて初めて僕はそのお客さんに気付き、慌てて顔を上げた。
 初めての来店だな、と直ぐに思ったのは、僕の物覚えが特別良いからでない。黒髪を背中まで伸ばしたそのお客さんが、一目見ていれば忘れないだろう独特の雰囲気を持った美人だったからだ。
 予約のない飛び入り客は、要望がない限り、手の空いている美容師が接客することになっている。つまり、僕が受け持つと言うことだ。
 希望を伺うと、お客さんははっきりと、こう言った。

「綾波にしてください」

 それが、オーナーと僕の出逢いだった。

【第二話 未知との遭遇】

 ――アヤナミ?

 芸能人には疎いんだけど、と女性雑誌に手が伸びたところで、天啓のように閃くものがあった。
 パチンコ店の壁に立ち並んだ、青い髪の少女。
「エヴァンゲリオンの、アヤナミですね?」
 お客さんの頭が軽く頷いた。間違ってはいなかったらしい。
 僕はとりあえず胸をなで下ろし、まずは洗髪のためシャンプールームへ向かう。
 この仕事に就いていると、‘ながら’作業が上達するもので、この時も口ではお湯加減など聞きながら、僕の脳は施術の手順を練り始めた。
 アニメ自体は見たことがないけれど、幸い有名なキャラクターだから、僕でも思い描くことはできる。イメージとしては前髪を下ろしたマシュマロボブ。内巻きにして、仕上がりは少し無造作ヘア風に崩した方が良いだろう。
 洗髪の終了と同時に僕の頭の中のイメージも仕上がる。お客さんをカットルームへ誘導し、早速カットを始めようとはさみを取り出したところで、僕はふと悩んでしまった。
 綾波の髪型にカットして欲しい、ではなく、綾波にして欲しい、と要望したお客さんだ。細かいことを気にしすぎかもしれないけれど、可能性が1パーセントでもある限り、僕はそれを確認するべきだと思った。
「あの、」
 声を掛けて、僕は言葉に詰まった。
 お客さんの顔は先程から真っ直ぐに鏡台に向かっている。けれど、その瞳は鏡の中から僕をじっと見つめていた。
 鏡越しに向かい合った視線の強さにたじろぎ、けれど意を決してもう一度問いかける。
「一緒にカラーはいかがですか? 綺麗な水色の粉があるんですけど」
 鏡の中の瞳が睫毛を一旦伏せ、それからゆっくりと持ち上げ直してもう一度僕を見た。
「合格」
 意味を僕が聞き返すより早く、お客さんは施術を始めるよう促すと、僕のはさみの音に合わせゆっくりと説明を加えてくれた。それは、新しいコンセプトの美容室を開設するので、スタッフになって欲しいと言う話だった。
 これはもしや‘引き抜き’なのだろうか。脳裏にそんな単語が脳裏に浮かんだが、自分の身に起こることと思っていなかったので、現実味が薄い。第一、引き抜き元の美容院の中で、仕事中に話すことがあるだろうか。
 僕は一瞬手を止めて周囲を見渡した。しかしお客さんとの適度なお喋りは業務の内だからか、特別この席での会話に注意している者はない。
「……どうして僕を?」
 強引に話を逸らすことも躊躇われ、結局僕は疑問を返した。
「第一は、アニメキャラの名前を言われて退かなかったこと。決め手は、客の髪だけ見るんじゃなく、どんな自分になりたいかって気持ちを汲み取ろうとしてくれたから」
 僕はなんと返して良いかわからなかった。
 この美容院は、スタイリストが自身の個性を表現することを重視している。デザイン料を取るには、僕のカットは個性が足りないと言われることもあった。
 でも僕は本当は、同じ個性を出すのでもお客さんの希望の方が、僕の主張よりよほど大事だと思っている。
 経営方針の違いと言ってしまえばそれだけだ。この考えを推奨してくれる店もあるのだと分かってはいた。けれど僕のやり方を見抜いた上で、口に出して認めてくれた人は初めてで、その時受けた想いはまるで言葉にならなかった。――たぶん、嬉しくて。
 だが、それと、話を受けることはまた別だ。
「ありがたいお話ですけど、僕、アニメとかよく知らないですし」
 エヴァンゲリオンが分かったのは偶然だ。
 僕より技術力のある美容師は万といる。きっとその中には、アニメに詳しい美容師もいるだろう。
 けれど、返ってきたのはシンプルな回答だった。
「詳しい必要はないよ」
 僕の為に話を合わせているのでなく、本当にそう思っているようだった。
 僕の脳がほかの文句を思い付くよりも、僕の手が施術を終える方が早かった。仕上がりを鏡に映して確認してもらう。お客さんから不満が出ることはなく、それは良いことなのに、僕は困ってしまった。
 結局カラーはしないとのことなので、僕とお客さんの接点もこれで終わってしまう。
 まだ、返事をしていないのに。
「仕事終わるの何時?」
 ふと、お客さんが問うた。それはカットの出来映えについて語るのと同じ調子で、僕も正直に業務時間を答えていた。
 時計が一瞥される。
「駅前のスタバで時間つぶしてるから、気が向いたら来て」
 まるで道端で再会した旧友が飲みに誘っているような気安さに、思わず頷きかけた。だが、お客さんは友達でない。
「気が向いたらって……」
 どう答えれば良いものか分からず、語尾は曖昧に消えた。
「詳しく話をしたいから、待ってる。でも待ってるのはこっちの勝手だから、好きにして」
「好きにって……」
 お客さんの言葉をそのままオウム返しにしていることに気付いて、僕は口を噤む。間の抜けたやりとりを、けれどお客さんは笑うことなく、つまり、と言い換えてくれた。
「身の危険を感じるなら来ないこと」
 大人なんだから、判断できるでしょ。
 そう言い置くとお客さんは会計を済ませ去ってしまった。
 戸惑う内にもやがて日は暮れて、閉店の時刻になる。掃除、ミーティングと目の前のことに没頭しているうちに、お客さんに伝えていた時間は過ぎていた。
 夕飯を食べに行こう、と誰からともなく声がかけられる。常ならば僕に断る理由はないのだけれど――
「約束があるので、今日は失礼します」
 一礼して、僕はジャケットを掴むと駆け出した。
 果たしてこれが大人の判断なのか、自信はない。ただ、後悔のない選択のためならば、僕は子供のままでも良かった。
 足早に辿り着いた駅前のスターバックスの扉を開く。相手を探す必要はなかった。まるでタイミングを知っていたように、僕がカットしたマシュマロボブ――否、綾波カットの頭が振り向いて、口元を綻ばせた。
 その笑みが天使のものだったか悪魔だったかは、今も僕しか知らないことである。


今回のネタは判り易くエヴァンゲリオン。
冒頭のシーンありきで書き出した為、なかなか纏まらず苦戦した跡が残っています。

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