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もう一度、ギャッツビーに関する話。

作中、ギャッツビーが口癖として使う「オールド・スポート」という言葉を、村上春樹氏はそのまま「オールド・スポート」と訳しています(※)。

これについて、氏は解説の中で下記のように述べています。

もちろん僕としても「何か適当な日本語の訳語」があれば、喜んでそれを使っていたと思う。しかし適当な訳語はとうとう見つからなかった。ご理解いただきたいのだが、僕はこのold sport問題について、もう二十年以上にわたって「ああでもない、こうでもない」と考えに考えてきたのだ。決して努力を怠り、安易に原語に逃げたわけではない。「オールド・スポート」は「オールド・スポート」でしかなく、「オールド・スポート」以外のものではあり得ないのだ。
—村上春樹 訳者あとがき

しかし、「日本語訳グレート・ギャッツビーという読み物」を書いている以上、日本語として読んで分かる言葉に置き換えて欲しかった、と言うのが私の感想です。
もちろん誤訳は困りますが、たとえば映画スター・ウォーズで、最初の訳者はフォース→理力と訳しました。後日再訳される時には既にフォースという言葉が定着していたので、そのままフォースでも問題ありませんでしたが、引っ掛かるよりは理解できる言葉に置き換えるという判断をした最初の訳者は、素晴らしいお仕事をされたと私は感じています。
100人中90人が片仮名のまま読んで理解できる単語ならば、それは自分が無知なだけだと諦めますが、はたして「オールド・スポート」を理解できる読者がどれほどいるのでしょうか?
私は、英語が堪能な読者でなければわからないと思います。

では、そもそも「オールド・スポート」ってどんな意味なのでしょうか。そして、どう訳せば適当なのでしょうか。

old 【形】〈話〉親しい~ちゃん、親愛{しんあい}なる~
sport【名】《男性間の呼び掛け》君

前述の訳者あとがきでは、英国人の当時の言い回しで、気取った感を与える呼び掛けだと解説しています。
「君」とか「貴方」なんてのも気取って感じるし語自体の意味としても適当かなと思いますが、個人的には「我が友」なんてどうだろうと思います。

ちなみに、「我が〜」思い出しただけでこの件と無関係ですけど、銀英伝の「我が皇帝(マインカイザー)」は、「我が君」と脳内で読み替えてました。
我が皇帝って、確かにその通りなのだけど、日本語としては違和感を感じます。そのままマインカイザーと読め!と言われればその通りなのですが、だってカタカナより漢字と仮名が好きな日本人だもの。

※正確には、初出セリフのみ「あなた(オールド・スポート)」とルビを振っています。

フィッツジェラルド著、村上春樹訳「グレート・ギャツビー」

【あらすじ(最後までのネタバレ有り)】
東部へ引っ越したニックは、友人夫妻のトムとデイジーと再会する。だがトムは、ウィルソン夫人マートルと愛人関係にあった。
ある日、ニックは豪邸に住む隣人ギャッツビーのパーティに招かれる。連夜盛大なパーティを開くギャッツビーは、客たちからその素性を悪意を含めて噂されていた。
実はギャッツビーは貧しい出身を隠して成り上がり、出征中に結婚してしまった初恋のデイジーと偶然再会できることを期待してパーティを開いていたのだった。
ニックの紹介でデイジーと再会するギャッツビー。二人は愛を蘇らせるが、やはてそれはトムの知るところとなる。
動揺したデイジーは、ギャッツビーの車を運転している内に、飛び出したマートルを轢き殺してしまう。怒るウィルソンは、車の持ち主を突き止め、ギャッツビーを射殺する。
ニックはギャッツビーの葬儀を行うが、生前彼が饗したパーティに押し掛けていた客たち、仕事相手たち、そしてデイジーも現れる事はなかった。

村上春樹翻訳で読む事が出来ました。
ちなみに、最近は原著通り「グレートギャッツビー」と訳されてますが、邦題「華麗なるギャツビー」の方が、作品には合ってる気がします。
「長編」にしては、あまり長さを感じず、むしろアッサリと読み終わった印象でした。
3章になるまでギャッツビーが登場しないので、最初は散漫な印象を受けました。しかし最後の破局に向かってバラバラのピースを一つに繋ぎ合わせる構成力は素晴らしい組み立てでした。
具体的には、マートルはギャッツビーの車を“トムが運転してる”と思い違ったから道に飛び出したのだと理解した瞬間、なるほど、と膝を打って感心しました。
有名作品ですので筋は知っていましたが、読むと単純なあらすじ通りの筋だけではなくて、人間心理等が行間から読み取れる不思議な味わいの作品だなと思います。
ただ、やはり「面白い」か?と言われると、ちょっと悩んでしまいますね。
外国製純文学は、英文で読んだ時に感じる美文がそのまま日本語になるわけでないので、ある程度展開が面白い等の要素がないと、楽しく読む事は難しいのでないかなぁと思いました。

麻生は字書きを自称していながら、きちんとした文学を読んでいません。
当初は至極真っ当な文学少女だった為、児童文学は大体読破しているのですが、背伸びしたくなった年頃が早過ぎて「老人と海」「失われた時を求めて」「赤と黒」等を小〜中学生頃に読んでしまい、何が面白いのかさっぱり分からず、その頃からライトノベルに脱線してしまったのです。
その後は「有名作に手を出したくない」と言う例の天の邪鬼性格が追加され、増々文学から遠離る事になってしまいました。

が、最近色々な要因があって、唐突にS.フィッツジェラルドの小説が読みたくなりました。
生憎、実家本棚に存在するアメリカ文学小説は数える程のため、意欲と購入に関する面倒を天秤に掛けて検討していたのですが、家人から図書館に行けと追い出されたので、数年ぶりに公立図書館へ行ってきました。
代表作である「華麗なるギャッツビー」が無難かなと思って書架検索をしたところ、なんと館内所蔵の3冊がすべて貸出中。
仕方ないから「夜はやさし」で良いか、と思ったらこちらは1冊のみで貸出中。
凄く意外だったんですけれど、今、フィッツジェラルドって、局地的流行でもしているのですか?
結局フィッツジェラルドの本は短編集しか残っておらず、長編を書く事に心血注いでいた作家なのに、短編から入るのも悪いような気がして、断念。
で、代わりにフィッツジェラルドとは縁深いヘミングウェイの「武器よさらば」を読む事に。
純粋な知名度ならフィッツジェラルドよりヘミングウェイの方が上では、と思うのですが、こちらは書架にたっぷり残っていたので、二種類3冊(訳者違い)借りてしまいました。
取り敢えず、二種類を読み比べて原文を想像しながら牛歩の読書開始です。
「老人と海」の印象は全く記憶に残っていないのですが、改めて接すると、ヘミングウェイの文章は非常に淡々としてますね。今のところ、情景描写と会話しかない印象です。特に吃驚するのは、主人公の一人称なのに、主人公が何を考えてるのかさっぱり分からないと言う点。
これが“ハードボイルド”かと開眼しつつも、「面白いか」と聞かれたら、「私は面白くない」と答える自信があります。アメリカ文化やアメリカ文学に慣れてないと、真価が分からないのかも知れませんね。E.ヘミングウェイと言う人間自身が、私から見れば実にアメリカ的でもありますし……。
そんなわけで、予約した村上春樹訳の「グレートギャッツビー」が来たら、放り投げるかも知れません──ので、放棄防止のため日誌に読んでる事を書いてみました。

ところで、性格の不一致だとか、著作での実名批判等の問題から、フィッツジェラルドとヘミングウェイは絶縁していたのだと勝手に思っていましたが、実際は死ぬまで文通をしていたんですね。
二人の手紙をまとめた「フィッツジェラルド/ヘミングウェイ往復書簡集」が読みたくなりましたが、図書館に入っていませんでした。買うと……後悔しそうな気配がする(苦笑)ので少し間を置こうと思います。