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大江山花伝DVDの前に書き上げたぞ!と思ったら、25日発売でした。明日届くつもりで準備万端整えていたので、ガックリです。

【第2幕10場A】
スコットは、マックス、ゼルダへ愛と感謝を込めてクリスマスの手紙を送る――

皆が、空の椅子に乾杯する演出は、何を示しているのでしょうか。クリスマスに手紙を貰った彼等が「Dear Scott」と呼び掛けようとしたその時には、もうスコット自身はこの世にいない、その結末の暗示かなぁ。
それにしても、ここでは役者としての台詞を挿入しなくても良かったと思います。感情移入を妨げているように思うのです。作中、さほど役者としての視点が必要だった所はないし、幕開けと終幕だけで充分だったのでは。

【第2幕10場B】
再び、1940年12月21日。
14時03分、心臓発作を起こしたスコットは死を迎える。あと一分、あと一秒生きて、一行でも続きを――それは、叶わぬ夢だった。
写真立ての中のゼルダに薔薇を捧げ、スコットはこの世から歩み去って行く――

10場の粗筋は長考の末、こう仕上げてみました。
「あと1分」
その台詞に、何と続くのか、それは観ている者の心に委ねられているからです。
あと1分でも続きを書きたかったのか、あと1分でもゼルダを愛したかったのか。どちらにも心を残しているように演じていたし、突き詰めれば両方だと思うけれど、作家にとっては物を書く事が人生を現していることであり、それはつまりゼルダを愛することもそこに含まれてると解釈しました。
最後、階段を上がっていく後姿に、写真立てと薔薇、そして書き掛けの原稿の束がオーバーラップするカメラワークが心憎いです。

オープニングの一場面が繰り返され、14時03分が刻々と迫る演出。これはリピート観劇すると、1幕からいきなり号泣させられる仕掛けですね。

【エピローグ&カーテンコール】
役者たちは21世紀の現在からその後の世界を語り、演じた人物へ思いを馳せる――

読書を始めたくなる落ち着いたエンディング。
幕は最後まで下りないのですが、光と影の薄暗い雰囲気が、この作品には似合っていると思います。
その分、カーテンコールで明るい曲調に戻るのが、最初は違和感でしたが、これは舞台を見終わった後に、気持ちよく帰ってもらう為の仕掛けなんでしょうか。
(ちなみに、初見の時はここで初めて生演奏だったことに気付きました。バウ作品で生演奏って、珍しいですよね?)
ところで、品が良いし実在の人物の生涯を取り上げてるので後日談語りとして成立してますが、これって「トラスティベル」のED説教みたいなものですよね……。

【第2幕8場】
スコットは、夢と栄光に満ちた世界を信じていたかつての自分のかけらを取り戻し、もう一度立ち上がる――

涙声で歌われる「Life(Reprise)」。

ある晴れた日 僕は思う
人生は美しく 希望は誰にも決して消える事ない
光の射さない朝はない

そう信じて、立ち上がる事が出来る強さに瞠目します。
スコットは成功が早過ぎて、心は少年の繊細さを保ったまま大人になってしまった。これまでの流れで見せた弱さはそれに起因しているし、今、再起する強さも、ここに起因してるんでしょうね。
かつてと同じように「世界は僕のもの」と歌うその気持ちは、無邪気に信じていた少年時代を経た今も思いは一緒なのか、それとも……。

ところで、この曲は絶対サヨナラショーで歌うと思っていたのですが、前任の大和悠河が先に演ったので難しいでしょうか?
大和と大空は同役を分け合ったり、今回の引き継ぎなど、不思議な縁がありますよね。持ち味が違うのに、同じ役が与えられるのは面白いなぁ。

【第2幕9場】
1940年、愛人シーラと暮らし始めたスコットは、長編「ラスト・タイクーン」を書き進め、小説を書き始めた10代の頃の気持ちを取り戻している自分に気付く――

シーラとの出逢いは入れて欲しかったです。どうやって知り合って、どういう経緯でこういう関係に至ったのかなぁと、不思議に思うし、知りたいです。
とは言え、シーラがスコットを愛してる事は良く分かります。
実は、シーラも悲しい人なんですね。家族が欲しかったのに、妻子のいるスコットを愛してしまったんだなぁ。
スコットの「目標ノート」は面白いと思います。こうして自分の目標を大小問わず設定して、乗り越えて行く力があるから、思い切った行動が出来るし、結果として成功できるんだろうな、と人生勉強になります。
でもこのノート、白紙ですよね。客席からは見えないにしても、全ページ複写で良いから適当に書いておけば良いのに!
スコットはゼルダと恋に落ちなければ、もっと違う人生を歩めたのかも、と思う晩年の穏やかさでした。
素敵な老紳士になる、と言うゼルダの予言は、当たっていたのかも知れませんね。

最大の山場なので、1場分だけですが長くなりました。

【第2幕7場】
スコットは再び長編小説に取り掛かるが、批評家たちやアーネストの幻覚に苦しめられ、原稿は読める文章にならない。やがて秘書ローラや編集者マックスも彼の側から離れて行く。ゼルダの愛やスコッティの信頼も重く伸しかかり、発狂するスコットの脳裏に最後に蘇ったのは、公園で会った学生の姿だった――

大好きであると同時に、作中最も重苦しく感じるシーンです。
長編を書く気持ちがあるのに思うように書けない苦悩は、アマチュア物書きの私でも身に凍みていますが、職業作家は生活にも直結しているし、自負も大きい筈。多少同調出来るが故に、それを超える苦しみだと思うと酷く沈鬱な気持ちになります。
このシーンで流れる「芸術と死(ヘミングウェイのテーマ)」は、作中の楽曲中唯一の日本語タイトルで異彩を放っていまね。曲目リストで探す時は探し易くて助かります。
「テーマ、登場人物、ストーリー」の三要素の内、単に面白い作品を書く流行作家で終わるか、世界に認められる大作家になるかの差はテーマかな、と思います。自分では、テーマなんてちゃんと据えた作品はないのですが……。
男役に翻弄されるダンスの末、結局行き着くところはアーネストの前である事に、スコットの意識の前に立ち塞がるアーネストと言う存在の不気味な巨大さを感じます。

自分自身の生活のため、スコットを見放さざるを得ないローラとマックスの苦悩も分かるし、それによるスコットの更なる絶望もよく分かります。どうして此処まで救えない状態に陥ってしまったのか、無情です。
個人的には、一読者としてスコットのファンだった筈のローラが離れていくのが一番辛いです。出て行った彼女には聞こえるはずがないのに、スコットが呼ぶ声に一度立ち止まり、身を隠すように立ち去る演出に、ローラの悲しみを感じます。
そして、マックスにもローラにも見放されたと知った瞬間の、蝋人形のようなスコットの表情。観ているこちらをドキリとさせます。

第一幕2場と同様、「ねぇ、知ってる?」と言うあの特徴的な高い声が、今回もスコットを打ちのめす、その繰り返しの構造が深いと思います。
彼を非難し追い詰める言葉だけでなく、ゼルダが手紙に託した本心からの愛の言葉が、そしてあんなに笑い合いながら言い合ったスコッティの激励が、等しく重荷になってしまう辺りが、本当に優しくない作品だなぁと思います。でも本当に行き詰まってしまった時は、自分へ向けられる好意の存在こそ辛くなる面はありますよね。
そこから彼を救い上げる事になった、公園の学生の存在は、人生を1日にしたら1秒分もない出逢いだった筈ですが、そんな小さな要素で救われることにカタルシスを感じますね。
でも、もう一度立ち上がれたのは、やはりスコット自身の中に在る力ではないでしょうか。公園の学生は、そのスコット自身を喚び起こすキーだったのでしょう。

大江山花伝DVDは25日! ラスパの感想はあと2〜3回くらい……ギリギリ終わるかな?

【第2幕5場】
その頃、病院でゼルダは出会った頃のスコットを描いていた。絵の中のスコットの背中には羽があった。それなのに自分がその羽をもぎ取ってしまったと悔恨する――

切り抜かれた空間の中で綴られる、透明な独白。
でも「You are me」な二人だったのだから、ゼルダも羽を持っていたのではないでしょうか。2幕は、1幕で幸せの中で歌われていた曲がRepriseで歌われるのですが、そのシーンはどれも切なくて堪りません。
スコットへの純粋な愛を語るゼルダには、近寄りがたい美しさを感じます。
それと、このシーンはゼルダに問いかける医師@一色瑠加が大人で素敵です。2場でスコットに病状説明していた時も、過剰に慰めることはしないけれど相手を気遣う優しさを感じました。

【第2幕6場】
スコットは公園で自身の小説を読む学生と出会い、感想を尋ねる。学生は、スコットの小説に忌憚ない感想を述べた上で、不思議と人生に寄り添いもう一度読みたくなる作品だ、と語る――

娘のスコッティは、いったい何時の間に産まれたんですかね(笑)。
公演の学生@明日海りおの配役に驚きました。出演者内でおそらく最下級生だと思われるのに、とても美味しい役ですね。
DVDを観ている内に、明日海は月船さらら(アーネスト)に似ている気がしました。その辺に配役の妙が……とは深読み過ぎでしょうか。
深読みはともかく、次場で重要なポイントになる役なので、しっかり印象を付けないといけない事を考えると、ここで眼を惹く美貌の明日海と言うのは、正しい使い方だなぁと感じます。
「舞姫」で、豊太郎の大学時代と、エピローグの留学生を彩城レアに二役させていた時に感じた事ですが、植田景子先生の配役は理に適っていて良いなぁと思います。

鈍足進行してましたが、25日に大江山花伝DVDが発売されるので、ちょっとテンポアップします。

【第2幕1場】
アメリカは大恐慌の中にあった――

トレンチコート姿のスコットが、最高潮に格好良い2幕開始。
しかし不安を掻き立てる音楽と振り付けで、暗い世界情勢を意識させられます。ドレスを着た女性のコロスが何を示すのか最初は分かりませんでしたが、恐慌の中でもアメリカンドリームを忘れられないスコットを現しているのかな。

【第2幕2場】
ゼルダの入院生活は続いていた。スコットはゼルダの精神を思い遣れなかった自身を悔やむ――

なぜか、ゼルダは、精神を病んでからの方が綺麗に見えて面白いです。
自分たちの生活を「正常でなかった」と語れるマトモな精神を持っていたのが、今後スコットの心にもたらす負担を増やしたのではないかと考えてしまいます。

【第2幕3場】
スコットは、ゼルダの入院費用や一人娘の学費等生活費の為に望まぬ短編を書く日々が続いていたが、遂に長編「夜はやさし」の執筆を開始する――

ここから登場する秘書ローラは、ちょっとオバさんちっくなキャラクター。ズケズケ物を言えて、演じるには一番楽しそうな役ですね。彼女は、電話の取り次ぎ等もしてるけれど、手書き原稿をタイピングすることが最大の仕事なのかな。
「時間的・経済的余裕がないと長編は書けない」と言う台詞が、売れない作家って厳しいよなぁと切実に感じます。

【第2幕4場】
出版した「夜はやさし」は大酷評を受け、今や大作家となったアーネストからは創作姿勢まで非難される。
スコットは、自分の命を燃やし続けていた“何か”が消えてしまったと感じる――

マックスは「仕事は結果」を持論にしつつ、スコット自身には慰めを与え、果たして本心は何処にあるのかと思わされますが、仕事人としてのマックスと、作家スコットの父としてのマックスと言う、どちらも内包しているのが実際のところでしょうか。スコットの背に手を伸ばすその手は、本当に優しいです。
アーネストは嫌味臭いけれど、結局は自分にも他者にも厳し過ぎるだけですね。二人の作風は全く違うので「こう書くべき」論はあまり意味を成さないと思うけれど、彼は絶対的に高い位置に自分を置いていないと堕落する恐怖があって、スコットを攻撃的に批判するのでないかな。
芸術家が大衆に媚びた作品を作ることを「身売り」と言うアーネストの表現は、凄くよく分かります。
原稿料前借り生活なのに、妻を高い病院に入院させ、娘を私立校に行かせているスコットは、正直アホ?と思います。アーネストから見れば、どう説明されようと完全に見栄としか思えない。いや、実際にただの見栄なんですよね。1幕ゼルダとの会話で「見栄っ張り」と言ってましたから。
で、「もうあんたと話す事はなさそうだ」と喧嘩別れしておきながら、この二人、史実ではスコットが死ぬまで文通してるんですよね。そう思うと面白いです。